この夏も〝うわさ供養〟の日々だ
七月六日、伊豆から東京・麻布の長谷寺に移した阿久悠の墓前で、七回忌法要が営まれた。スポニチで二十八年間連載、三百六十三編を書いた「甲子園の詩」は、彼のライフワークで、命日は八月一日、彼はまさに〝夏の人〟だった。法要の日〝千年猛暑〟とやらが始まり、関東は梅雨が明けた。八月中旬には、岡千秋、里村龍一と北海道・鹿部へ行く。星野哲郎が生前、二十数年も毎夏、海の詩人のおさらいに出かけた漁師町で、僕らはずっとそのお供をした。この夏も、知遇を得た詩人たちを思い返す日々が続く。
2013年7月のマンスリーニュース
2013年10月22日更新この夏も〝うわさ供養〟の日々だ
七月六日、伊豆から東京・麻布の長谷寺に移した阿久悠の墓前で、七回忌法要が営まれた。スポニチで二十八年間連載、三百六十三編を書いた「甲子園の詩」は、彼のライフワークで、命日は八月一日、彼はまさに〝夏の人〟だった。法要の日〝千年猛暑〟とやらが始まり、関東は梅雨が明けた。八月中旬には、岡千秋、里村龍一と北海道・鹿部へ行く。星野哲郎が生前、二十数年も毎夏、海の詩人のおさらいに出かけた漁師町で、僕らはずっとそのお供をした。この夏も、知遇を得た詩人たちを思い返す日々が続く。

いのちの海峡
作詞:田久保真見 田久保真見の詞は前後半四行ずつの八行がワンコーラス。言葉多めのそれに、幸耕平が曲をつけた。前半が語りで静か、後半は派手めに歌い回せるタイプ。
それにしても大月は、歌いたがる人だ...とつくづく思う。前半の語りの最後あたり、「さあ、この後はたっぷり行ける」とでも言いたげに、歌唱にもうスイッチが入っている。
大月・幸のコンビは、生きのいい歌づくりでいくつか、ヒット曲を作った。曲と歌にドライブ感があって、快い乗り。それをせめて野放図にしなかったのは、大月の年の功か。

男の意地
作詞:仁井谷俊也 歌い出しの歌詞一行分は、大てい低めに出る。ドラマの序章だから、そういう型で、歌のヤマ場へ向けた段取りをするのだ。意表を衝くケースでは、頭から高音で出ることが多い。ところがこの作品、水森英夫の曲は、その一行めの後半で突如、高めのヤマを張った。
池田の力量、声味、覇気が、そこで誇示される。引き続き、張り歌の妙味が引き出される高音部が二個所ほど、仁井谷俊也がレトリック系の詞をうまくまとめたのも手伝って、インパクトの強い歌が出来上がった。

雨の函館
作詞:田久保真見岡千秋の曲が、歌い出しから高音でガツンと来た。となれば一コーラスにヤマ場は三個所の訴求力が生まれる。田久保真見の詞は函館から鹿部へ、傷心の女を旅させて器用。鹿部ねえ...と個人的な感想が生まれる。僕らの恒例の旅先を入れたのは岡の入れ知恵か。

酒とふたりづれ
作詞:たきのえいじ作品は大てい、作曲家が歌う見本ごと歌手に渡される。だから歌い手は、作家の歌唱に引きずられがちになる。秋岡のこの作品は、高音の声のつぶし方、低音の揺すぶり方に、岡の匂いが濃いめ。この人の場合、影響されたと言うよりは、意識的に取り入れた気配だが。

冬のすずめ
作詞:円香乃冬、去った男への思いで、女は雪に埋もれたすずめみたいに、手も足も出なくなっている。そんな心境を前半四行分で淡々と、後半三行分は盛り上げて、戸川の歌が歌詞とメロディーを辿る。岡千秋のポップス寄りの曲、詞の円香乃は編曲・伊戸のりお夫人だそうな。

望郷よされ
作詞:仁井谷俊也歌い出しを高音で決めた。タイトルからの連想もあって、民謡調に展開するか?と思ったら、じっくり歌謡曲調。作曲・宮下健治は春日八郎に似合いそうな曲を多く書く人で、自然、曲調はなだらかである。それを各コーラス、曲の最後で三笠が、激して聴かせた。

春ふたつ
作詞:坂口照幸作家はそれぞれ特有の世界を持つ。作詞家坂口照幸は、地味だがコツコツ律儀なタイプ、作曲家四方章人は、お人柄か穏やかで温かい曲を書く。そのコンビのこの歌は、春の陽だまりみたいにおっとりとした感触。それが山本の声味と巧まない歌唱に、よく似合った。

一厘のブルース
作詞:もず唱平九分九厘アウトでも、残る一厘で踏ん張ろうという詞は、もず唱平のアイデア。三番には彼の思いが詰まっている。それをサックスが鳴る蔦将包の編曲で、鳥羽がいかにもいかにも...の歌にした。作曲は島根良太郎。どこかで聞いた名?!だが、鳥羽の筆名だとか。

なみだ川
作詞:喜多篠 忠吹き込みが済んだ夜、たまたま岡千秋と飲む。「いいのが上がった」と力み返っていた。小桜の幼な声と節回し、可憐なくらいに高めの声と、岡の曲の粘着力が微妙なバランスを作る。いじらしさの情がにじむあたり、小桜の歌手十三年めの進境だろうか?