僕も桑田の「術中」にはまった!

2021年2月11日更新


殻を打ち破れ228回

 何しろ歌い出しから、主人公は「土の中」なのだ。死者をしのぶ歌は数多くあり、決して歌謡曲のタブーではないが、こうまでズバッと来ると、どうしてもドキッとする。タイトルがタイトルだから、多少身構えてはいるにしろだ。

 坂本冬美の新曲『ブッダのように私は死んだ』についてなのだが、やはり冬美本人よりも桑田佳祐の詞、曲への関心が先に立つ。一体、女に何があったのだ?

 悪い男と知りながら、尽くしに尽くして、あげくに殺された女性と判る。男は何食わぬ顔でテレビに出ていたりして、それもシャクのタネだが、優しい口づけに溺れた自分が悪かったのか?彼女は自問したあとに「私、女だもん」仕方がないか…と思い返したりしている。

 桑田という人は、なかなかの曲者である。独特の感性と意表を衝く表現、軽やかな身のこなしの音楽性で、ポップスの雄。それはみんなが認めるところだが、泣かせどころを作る妙手でもある。今作も「所帯持つことを夢見た」なんて、まるで演歌の決まり文句が出てくるし、母親に「みたらし団子が食べたい」と訴えたりする。

 そんな個所が妙に沁みたり、クスクスッとなったりしながら、聞き手の僕らはあっさり彼の術中にはまってしまう。そのうえこの作品は、聞けば聞くほど、意味あいが深く感じられる。その辺を冬美も、あれこれ思いあぐねながら、かなり深彫りして歌っていることに気づく。手紙で桑田に作品をねだって夢が叶い、有頂天の時期から、歌手としての己を取り戻すまでには時間がかかったろう。稀有の作品だが、冬美の歌の仕立て方も、これまでに類を見ない。

 こっちも急に忙しくなってしまうのだ。「ブッダ」は「仏陀」で、悟りに達した人、覚者、智者だな、「お釈迦様」は「釈迦牟尼」の略で仏教の教祖、生老病死を逃れるために苦行、悟りを開いた人だな…と、広辞苑と首っぴきになる。気分は次第に抹香くさくなるが、歌は逆に、やたらに生臭い。

「骨までしゃぶってイカされて」危ない橋も渡った主人公は、魔が差したみたいに手にかけられた。しかし魂はやむを得ないと悟ってみても、体は到底悟れるはずもなく「やっぱり私は男を抱くわ」と、彼女は話を結ぶのだ。それが女の「性」なのだろう。この際「性」は「さが」と読んで「生まれつき」や「ならわし」などの意。そこで彼女は、そういうふうに居直るのか? 諦めるのか? ごく自然に自分を許すのか? 今や妙齢に達している冬美は、思い当たる節があるはずで、それを微妙に、この歌に託していまいか?

 恩師の作曲家猪俣公章が作りあげた彼女の世界を、展開させたのは『夜桜お七』であり『また君に恋してる』だったろう。この2曲で冬美は演歌にポップス系の魅力も加えて、一流のボーカリストの地位を固めた。「もうここまでで十分だよ」ともらしていた彼女が「紅白歌合戦」で桑田に出会い、触発される機会を得る。おそらくは、彼女の中に漠然とあった「飢え」が、突然吹き出し、形を求めたのだろう。

 「私はいつ歌手を辞めてもいい、本当にもう、これ以上何も望まない」

 今作を得て本人はそう言い切るのだが、「さて、どんなもんかな?」と、僕はニヤニヤする。新しい何かを欲しがるのは、彼女の歌い手としての「性(さが)」で、果てることのない「煩悩」なのだから。

 こういう作品が、大きな話題になり、大方の注視と支持を受けるくらいに、時代は変わった。流行歌はこの調子だと、どんどん面白くなりそうだと思う。しかし、カラオケ熟女には一言。この作品はなまじ「歌おう」などとはしないで、じっくり「聴く」に限ると思うのだがどうだろう?