星野哲郎-喜多條忠 伊東に縁を辿って…

2022年3月11日更新


殻を打ち破れ240回

 

 星野哲郎の著書「妻への詫び状」に「我が“神田川”時代」という一節がある。昭和32年の秋から東京・吉祥寺の「いずみ荘」というアパートの四畳半で、朱実夫人と同棲生活をはじめたころを述懐する章だ。

 「僕らは貧しかったが、幸せだった。(中略)若いふたりの同棲生活を歌った『神田川』という曲がヒットするよりずっと前のことだが、当時のことを思い出すとき、あれはまさしく僕らの“神田川”時代であったなぁと思う」

 とある。『神田川』の作詞者喜多條忠はこの一文を読んでいるに違いない。星野は日本クラウンを代表した作詞家。喜多條の『神田川』は同じクラウンから発売されたかぐや姫のアルバムの1曲で、シングルカットに指示したのが伝説のプロデューサー馬渕玄三氏。星野のヒット曲に数多くかかわった人で、喜多條は星野を密かにこの道の師とし、馬渕氏を生涯の恩人と呼んでいた。感銘は深いはずだ。

 星野が長く伊豆の伊東あたりで清遊していたことは、よく知られている。喜多條が最近『なぎさ橋から』という詞を書いた時に、

 「同じ名前の橋はあちこちにあるけど、伊東のやつがなつかしいな」

 と話したのも、星野からの連想だろう。僕らのゴルフと酒盛りの遊びの会・小西会の有力メンバーの一人として、彼は何度も伊東のサザンクロスでプレーしている。このゴルフ場も星野が通い詰めたところで、彼の没後もちゃんと「星野先生の部屋」が維持されている。

 「これも縁かな。せっかくだから“なぎさ橋から”を、伊東の皆さんに聴いてもらおう」

 と僕は思いついた。昔々、星野が書いた『城ケ崎ブルース』の歌碑が、レコード発売と同時に完成したことがある。駆け出し記者の僕はびっくりして取材に出かけた。伊東の人々は歌好きで、時にこんな異例の出来事をしでかすのだ。

 ♪行かねばならぬ男がひとり 行かせたくない女がひとり…

 と、僕は今でもちゃんとこの歌を歌える。その前後から星野の知遇を得て、弟子を名乗ることも許された。当然みたいにサザンクロスへお供もしたし、知り合った伊東の有力者も多い。

 『なぎさ橋から』は一度、秋元順子の『いちばん素敵な港町』のカップリングとして世に出ている。制作当時、作詞した喜多條と作曲した杉本眞人が

 「こっちこそ“推し”だよ。このタイプの歌は、僕らじゃないと書けない!」

 と口を揃えて訴えたが、プロデューサーの僕が押し止めた。この作品の悲痛な訴求力は、コロナ禍が下火になってこそ生きる…としての温存である。新種のオミクロン株の動きが不穏だが、新しい年へ “コロナ以後”“ウィズ・コロナ”暮らしの気配は、社会に芽生えつつある。作品への反響も大きい。

 「よし、年明けにひと勝負だ!」

 作家ふたりの希望を入れて、秋元で再度レコーディング…の段取りを決めたところへ悲報が飛び込んで来た。11月22日、喜多條忠が肺がんのため死去した。働き盛りの74才だもの、僕らは声を失った。

 「彼のためにも、何としてもヒットさせよう。そのためなら何でもするよ」

 スタジオで杉本が決意を語り、秋元がうなずいた。「いい作品を新装再開店!」の試みが、身内では「喜多條の弔い合戦」に変わってしまった。

 星野と喜多條、それに伊東の人びととの縁を辿って、1月に現地でPVを撮影、2月に新曲としてのお目みえに『なぎさ橋から』は大きく舵を切ることになった。