船村徹も来年は7回忌だ…

2022年7月3日更新


殻を打ち破れ244回


 『泣き虫人生』『ハンドル人生』あたりから鼻歌でなぞる。ああ船村徹作品だな…とうなずく人が居たら、相当なはやり歌通である。それが『ご機嫌さんよ達者かね』や『あの娘が泣いてる波止場』あたりになれば、そうそう! と合点する向きも増えようか。昭和30年に世に出た高野公男・船村徹作品。それを吸い取り紙みたいに覚えた僕は、当時高校を卒業する前後。ぼろ学生服に破れ帽子、腰に手拭いをぶら下げた高足駄ばき、今では“バンカラ”とか“硬派”とか言っても「それなあに?」と聞かれそうだが、質実剛健を気取った学生ファッション。当時でももはや時代おくれの、極く古いスタイルの高校生だった。そんな格好で流行歌狂いも「軟派」っぽくて少々矛盾しているが、意に介さない。作詞家高野は僕が育った茨城の人、作曲家船村は隣りの栃木の人で、同郷の先輩意識が強く、何よりも2人の作品はきわめて新鮮な魅力に満ちていた。

 突然の昔話になったが、僕は今年のゴールデンウィークを、船村の足跡を追うことに集中した。来年2月が7回忌に当たるのを期して、船村本を作ることになっての孤軍奮戦である。令和元年ごろ、船村の故郷栃木で発行されている「下野新聞」に連載記事を書いた。週に1本水曜日付けで50週は頑張ったろうか。今回の本はその下野新聞社が出版元で、連載した記事プラス新企画という内容になる。昭和38年にスポーツニッポン新聞の駆け出し記者として初めて会い、知遇を得て密着取材した54年分の集大成! と意気込んで、資料と首っぴきの日々。コロナ禍で友人との酒盛りも不可だから、ちょうどいいか!

 栃木県には海がない。幼少のころ船村は母親ハギさんと日光へ出かけて、大きな水面を見た。母に「あれが海け?」と尋ねたら、彼女は言下に「そうだ、あれが海だ」と答えたと言う。2人が見ていたのは、実は中禅寺湖だったと言う記述には笑った。笑いながら好奇心満々の船村少年を思い浮かべた。

後年船村が語ったハギさん像は、つぎはぎの着物にぼろもんぺ、寝ているところを見たことがないほど、働きづくめの人だった。何冊かの懐想本を読むと、船村がハギさんを語る筆致がしみじみ温かいことに気づく。本名福田博郎の船村が世に知られるようになっても、彼女は「デレスケ(馬鹿者くらいの意)が!」と信じなかった。弟子として成功させた北島三郎や鳥羽一郎を郷里に連れ帰ると、母は彼らにしきりに謝った。「こんなデレスケにつきあってくれて、親御さんはさぞ迷惑なことだろう」という気づかいで、弟子はいつもVIP待遇、彼はいつもバカ息子扱いだった。

 船村がヒットメーカーに大成しても、ハギさんが「あれはいい歌だ」とほめたのは『東京だよおっ母さん』1曲だけ。東京見物をすすめても応じず、家を守って栃木を出たことがなかった母をモデルに、作詞家の野村俊夫に詞を依頼した歌である。息子の思いが母に通じたのかも知れない。

 ハギさんは昭和55年2月、89才で亡くなった。船村はその棺に即席の短歌を書いてしのばせた。「ぼろもんぺ 好きかと問えば好きだよと 笑いし母の通夜に雪降る」――。

 ≪男は大なり小なりみんなそうだが、船村徹という人も、実はマザコンだったんだな…≫

 僕は母親の女手ひとつに育てられ、いまだに飼っている猫まで雌という筋金入りのマザコンである。僕が知り合ったころの船村は、まだかなりの強面で、酒の席などで僕はいつもピリピリしていた。そんな大作曲家の素顔に合点しつつ、僕の船村再探検はしばしば横道にそれながら、まだ当分は続きそうだ。