津川鵣汀は立派な座長になっていた!

2022年8月29日更新


殻を打ち破れ246回

 

 「立派になったな、うん。感激したよ、見事な座長ぶりだ。見に来てよかった、会えてよかった!」

 ま、本当にそう思ってはいたが、口に出していい相手だったかどうか?「剣戟はる駒座」の座長・津川鵣汀。いくらこちらが年上としてもキャリアがまるで違った。13年ぶりに横浜の三吉演芸場に出演中の、関西の人気一座を統率する座長である。そうは判っていても懐かしさが先に立った。14年前に「鵣汀(らいちょう)!」と呼び捨てにしたころの彼は15才。僕はと言えば70才で初舞台を踏んで3年め、芝居も3本めの素人同然だった…。

 そんな出会いは平成20年8月、東京・千住のシアター1010で上演した「耳かきお蝶」(脚本岡本蛍、演出岡本さとる)名取裕子・南原清隆主演の時代劇で、名取が客に膝枕をさせて耳の垢を取り、心を癒やす天使みたいな役どころ。そのお蝶に弟子入り、日夜、小間使いみたいに働く勝気な少女おつるが鵣汀で、僕はお蝶の常連客の代表格で、魚屋の隠居・大和屋五郎兵衛だった。

 この鵣汀という少年のコメントが

 「女の子の役は苦手だけど、お客さまに“あの子女の子?”と間違えられたらOKかな」

 ≪何を小癪な!≫

 と内心では思ったが、座長・津川竜の長男で、生後10ヵ月には舞台に立ったという芝居ぶりに目をみはる。実にてきぱきと小気味よく、泥くささも嫌味もなく、かわい気すっきり素直なのに脱帽して、年齢差ぬきの友だちになった。大衆演劇の世界では、楽屋で生まれ、そのまま全国を転々…という話をよく聞くが、鵣汀には座長の父、女優の母・晃大洋(こうだい・はるか)弟の津川祀武憙(つがわ・しぶき)と一緒の環境があった。それが良かったのか、だから一層厳しかったのか、いずれにしろしっかりと、受け継いだ芸の血があったろう。

 それが…それがである。今や29才、2児の父となった鵣汀は、祀武憙と兄弟2座長の2枚看板で、6月1日から28日まで、三吉演芸場で一ヵ月公演である。芝居とショーの2本立てで3時間を出ずっぱり。5人の子役を加えれば15人の一座を率先垂範、これでもか!これでもか!の熱演で客席を圧倒した。弟ともども青年の覇気と少々のユーモアで実によく動く。ショーになればおなじみの女装が小粋だったり、ポップス系の音楽にノリノリ、キレキレは、一座全員とまだ踊るのか!そこまでやるのか!の超たっぷり…。

 「総裁」を名乗る勝龍治はおそらく祖父。嵐一郎が一時代を築いた嵐劇団を後継、パワフルな芸風を引き継いだ人と、橋本正樹氏の著書「晴れ姿!旅役者街道」で読んだ。ファンからの“お花”(金品などのプレゼント)に合掌するのもこの人の感謝の表わし方とか。鵣汀一座の面々は、舞台のパワフルさもお行儀もちゃんと受け継いでいた。

 僕は根っからの大衆演劇ファンである。70才初舞台は明治座の川中美幸公演だったが、その後沢竜二の全国座長大会に呼んでもらい、門戸竜二公演もレギュラー。実は作詞家荒木とよひさに誘われて三吉演芸場の三代目大川竜之助一座に参加、ぶっつけ本番で4日間に4演目をやったのが、そもそもの舞台初体験だった。その後大物の若葉しげるに目をかけてもらい、大川良太郎や竜小太郎と芝居をし、ごく最近では梅田劇団総座長の梅田英太郎の教えにも接した。

 14年前に鵣汀と知り合った時に「お前さんの結婚式には必ず出る」と約束したが仕事で果たせぬまま、彼の父津川竜の葬儀にも出席出来なかった。横浜でその二つの不義理を詫びたが

 「気にしないで下さいよ、そんなに…」

 と、鵣汀兄弟と母親の反応は芝居同様に温かかった。