山田太郎、歌で"侠気"を継承

2010年12月6日更新


殻を打ち破れ 第107回

 「いい味出してるねぇ」
 ひと昔前の焼きソバのコマーシャルみたいな言い方で、僕がほめた。
 「いやあ、幾つになっても緊張しますね」
と、山田太郎が笑顔で応じる。
 「昔は金を取って歌ってた。近ごろはカラオケなんかで、金を払って歌う。上達するはずだわな」
 僕は重ねて、そんな冗談を言う。
 「それがね、このごろはタダで歌わされることが多いの。馬主会の集まりなんかで…」
 山田も冗談で返しながら、近況をちらりとのぞかせた。そう言われれば浅草のホテルで開かれた彼の発表会。会場入り口には競馬関係の祝い花が、目白押しだった。
 山田と僕は、年こそ違うが歌社会の同期生。彼が15才で歌手デビューした昭和38年、僕はスポーツニッポン新聞の取材部門に異動、28才でホヤホヤの音楽担当記者になった。当初僕は彼を本名の西川賢から“賢ちゃん”と呼び、『新聞少年』がヒットした40年以降は“太郎君”、長じて彼が父・西川幸男氏から新栄プロを引き継いでからは“社長”と呼ぶ。三回も呼び方を変えた親友は、他には居ない。
 その山田が、先輩村田英雄のヒット曲『花と竜』『男の土俵』をカバーした。9月13日夜の会はそのお披露め。山田は歌手であるほかに新栄プロの社長、中山馬主協会の会長だから、パーティーの来賓も多士済々だ。僕と山田のつき合いは、彼の父で新栄プロ会長の西川幸男氏の知遇が核になる。僕は長くこの人に密着、見よう見真似でプロダクション業務の実態とその哲学を学んだ。会長と村田の親交にも詳しい“新栄育ち”だ。
 九州の若い浪曲師酒井雲坊と東京の興行社の青年社長の二人が、握手したのは昭和24年の暮れ。それが『王将』でブレークするのは36年だから、12年もの苦闘の時代があった。いわば“一蓮托生”の男二人が“乾坤一擲”の勝負に勝ち、生涯を“刎頸の友”として過ごした歴史には、心うたれるエピソードが山盛り。村田が作詞、作曲した『花と竜』『男の土俵』には、そんな西川・村田コンビの万感の思いがこめられている。
 「だからこれは、単なるリメイクやカバーの類いではない。山田太郎本人は事の重大さを肝に銘じているはずです」
 と、発表会のあいさつで僕はぶち上げた。二人きりの場面だったら
 「えらいこと始めたね、あんた…」
 なんて肩の一つも叩くところだが、彼の晴れ舞台なら僕も、それ相応に気合が入るのだ。たかが流行歌だが、されど流行歌である。この2曲には、昭和の歌謡史に1ページを作った男二人の、不屈の闘志と汗と涙がしみついている。
 山田太郎は歌で、父と先輩のそんな「侠気」も継承することになった。そのせいか舞台上の彼は実に男っぽく、いい表情でこの2曲を歌い切った。そこで飛び出したのが冒頭の、
 「いい味出してるねぇ」
 「いや、いや…」
 のやりとりである。西川会長は会場の一隅で山田の歌声に聞き入っていた。山田はまたひとつ大きな親孝行のチャンスも得たことになる。

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