殻を打ち破れ113回
久しぶりに星野哲郎の肉声を聞いた。録音物なのにぼそぼそと、世間話みたいな一人語りで、例えば
「僕の場合、夜遊びは仕事なんですね。歌で一番大事なのは色気ですから。女房といつももめるのはこれですね。これは浮気だよ、これは仕事だから認めてくれよ。こういうことは絶対だめですね、女房って奴は…。これはネックですね」
なんて言い出す。「弁解するわけじゃないけど」の前置きがあっての愚痴。
「本気があってこそ、浮気がある」
という結論!?へ行きつくのだが、
「こんなことしゃべってると判ったら、大変ですからね。これはいい加減にやめなきゃいけない…」
と、うそ寒い顔になったろうあたりまでが、ちゃんと録音されていた。
「星野哲郎ナレーション入り」と、大きめのサブタイトルがついたアルバム『西方裕之 星野哲郎を唄う』のひとこま。『北海酔虎伝』『海の祈り』『風雪ながれ旅』『なみだ船』など、西方が歌う星野の名作13曲に、彼の一人語りがはさまっている趣向だ。
≪ああ、あれだな…≫
と僕はニヤリとした。CDを届けて来たのはキングの古川健仁プロデューサーだが、ものは彼と西方がBMGビクターにいたころに作った。まだ晩年というには少々早い星野をつかまえて、スタジオでごそごそやっていたのに僕は出っくわしている。それを星野の一周忌を前に、改めて世に問うあたりがこの人のしぶといところ。彼は三木たかしの葬儀に演奏された、三木作品の弦楽四重奏をアルバムにした。各社のスター歌手が歌った『別れの一本杉』だけを集めて、作詞家髙野公男の没後50周年アルバムにしたこともある。“機”を見るに敏は“忌”を見るに敏に通じるのか。
ところで、微笑をたたえた温顔とお人柄で、多くの信奉者を持った星野だが、歌書く人の多情多恨、多少の艶聞はあった。根城にした新宿界わいのホステスさんたちは「テツローッ!」と呼び捨てを許され、彼の周囲に群がった。
≪あれは夜遊びの陽動作戦だったのかも…≫
と勘ぐったことがある。昭和54年の夏だが、作詞25周年のパーティーをやった数日後、星野は心筋梗塞で倒れた。幸い大事にはいたらずに済んだが、以後しばらく僕は星野の傍に居て、節酒をすすめ、車を呼んで自宅へ送り返すことを役目とした。半年後くらい後か、
「小西さん、たまには帰して下さいませよ」
たまたまの電話だったが、朱実夫人からの小言は思いがけなくきつかった。僕の名を言い訳に使って、彼はいつもあれから、どこへ行っていたのか?
4月5日夜、原宿の南国酒家で星野の愛弟子だった中山大三郎の7回忌の偲ぶ会が開かれた。彼の会らしい賑やかさの中で、僕は星野の長男真澄氏と、1周忌をどうやるかの相談をした。謹厳実直の大詩人星野らしく…と提案しながら、僕は師と仰いだ人の多情多恨が、やがて多情仏心に昇華されていった日々を思い返した。
