横井弘は歌社会の文学者だった!

2015年12月29日更新


殻を打ち破れ167回

 三橋美智也の『哀愁列車』が大ヒットしたのは昭和31年。歌い出しから三橋の高音が♪惚れて...と突出して、同じフレーズを3回繰り返す。悲痛で甘美な魅力がズン!と、胸に沁みたものだ。

 この歌に背を押されるように、その年の8月、僕は上野を目指す常磐線に乗った。茨城の水海道第一高校の卒業期、急性脊髄炎にやられて半年の入院生活のあと、何はともあれ東京へ...と、お先まっ暗な旅立ち。この各駅停車は僕の、文字通りの哀愁列車になった。

 折からキングの全盛と、三橋・春日時代が始まっていた。歌謡少年だった僕は、作詞横井弘、作曲鎌多俊与の名もそらんじていて、ラジオの「キングアワー」で、町尻量光文芸部長という人名と職種まで知る。僕が拾われた仕事は、スポーツニッポン新聞社のアルバイトのボーヤ。それから7年、内勤部門で働いて、歌社会の取材記者に取り立てられるのは、昭和38年、28才の夏...。

 平成27918日、僕はアルカディア市ヶ谷で開かれた「横井弘さんお別れの会」に居た。右隣りの席に作曲家の弦哲也。献花したあと横井の作品リストを見ながら、「あれも横井さんか!」「これも横井さんだ!」と感嘆の声を交わす。若原一郎の『裏町のピエロ』、春日八郎の『月の嫁入り船』や『居酒屋』、三橋美智也の『赤い夕陽の故郷』や『おさらば東京』、バーブ佐竹の『ネオン川』、佐々木新一の『君が好きだよ』などを、僕らは小声で歌い合いながら「知ってるねぇ」とお互いの歌好きを確認する。

 デビュー曲と知る『あざみの歌』は、およそ流行歌ばなれした清澄の境地。春日八郎の『山の吊橋』はほほえましい野趣にあふれ、仲宗根美樹の『川は流れる』は、一字一句のゆるみもない3コーラス。推敲のあと歴然の筆致が、簡潔を目指す雑文屋の僕の、終生のお手品になっている。

 この人の仕事の凄さを、よく話してくれたのは作詞家星野哲郎。

 ♪西条、佐伯と言わないまでも、せめてなりたや横井まで...

 志得ぬころの星野らは、新宿の夜にそんなざれ歌を歌ったと言う。西条八十や佐伯孝夫は目標とするには大き過ぎて、畏敬の念を持って追おうとしたのが横井だったらしい。私淑した星野ですらそうなのだから、僕には横井は雲の上の人。キングで一、二度、新宿の「花寿司」で一度ほど、面識を得たくらいに止まる。温厚、寡黙の紳士で、近寄り難い雰囲気があった。

 純粋詩からスタートした人という。文学を目指す、活字で読む詩だ。そこから耳で聴く歌謡詞で、俗に通じる世界へ転じる。手がかりをつかむために、キングに勤めたり、日本音楽著作権協会で働いたりしたそうな。『あざみの歌』で認められ、作詞家藤浦洸に師事、双方唯一の師弟関係になったとか。

 ≪口惜しいなぁ≫

 と、我が身を振り返る。歌社会の腕利きになつき、密着する体験型取材者なのに、横井に関してはそのチャンスを永遠に失った。彼一流の独特の抒情性、どんなタイプの作品にも維持した品位、はやり歌世界に稀にある文学者としての風格...。そんな「仕事と人」を偲ぶよすがに、僕は一人でぼそぼそと、また『哀愁列車』を歌うしかないか...。

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