君は『空蝉の家』を聞いたか!

2016年12月17日更新


殻を打ち破れ173回

 男は家を売りに来ている。父母はすでに亡く、放置したままになっていた故郷の生家だ。蝉しぐれの夏、彼の胸中に去来するのは、懐かしさとやるせなさ...。

 堀内孝雄の歌声が、じゅんじゅんと主人公の思いを語る。穏やか過ぎるくらいの風景の中で、情感は次第に切迫する。日に焼けた畳にあぐらをかいた男は、不意に涙ぐむ。見上げた空が、とてつもなく青過ぎるのに気づくのだ。

 ≪いいねぇ なかなかに...≫

 堀内の45周年記念シングル『空蝉の家』を、もう一度聴き直す。主人公は都会で暮らしていて、そんな空家を処分しに来たのだろう。しかしそこには、幼い日々の思い出が沢山つまっている。思い返すのは両親の愛情に満ちた光景で、息子を気づかって口うるさかった母、不器用で無口だった父のさりげない視線...。

 演歌ならさしずめ、「泣いて詫びたい不幸の罪を...」になる設定。それをこの歌は、庭にころがる蝉の抜け殻に託して、家を時の抜け殻に見立てる。命の限りに生きた"あのころ"の人々の営みを見据えて、遠くなった昭和への挽歌の奥行きまで作る。

 若い世代が、心ならずも故郷の家を、無人のまま放置している実例は山ほどある。少子高齢社会が抱える大きな問題だ。そんな古民家を求めて、都会から地方へ移住する例も時おり話題になるが、それは極く稀でしかない。そんな社会問題に、堀内とそのスタッフはこの歌で、正面から取り組んだ。

 ≪いいじゃないか。田久保真見!≫

 僕は改めて歌詞カードと向き合う。彼女らしさが生きているのは、蝉の抜け殻の発見だろう。この小道具一つが、古い空き家のイメージと懐旧のあれこれを切実なものとし、時代を語るキーワードにした。タイトルの『空蝉の家』からして、企画の狙いから描かれるドラマまでを、すっきりと言い切っているではないか!

 こういうタイプの"いい詞"は「歌う」よりは「語る」べきものと、堀内は感じ取っていたはずだ。あるいは逆に、歌いあげるよりは語るスタイルを身上とする彼が、恰好の詞を得たのかも知れない。この作品を"いい歌"に仕立てたのは、彼独特の曲のつけ方と語り口、だから中、低音が主になって時に高音部が激しかける。

 田久保真見は能ある鷹が爪を隠している作詞家だ。特異な感性と言葉選びで、いい歌を多く書いているが、隠されている一面は社会派だと考える。以前、湯原昌幸に書いた『菜の花』が、痴呆問題を背景にした快作だったが、今度はこれである。社会問題を生硬なメッセージソングにせず、詩情で包み込んで手渡す手法と完成度が得難い。

 ≪ヒットするかどうかは、二の次とするか...≫

 僕はこの歌が、売れ線狙いの類型的ラブソング群に埋もれてしまわないことを祈りたい。流行歌はもともと「時代を写す鏡」の役割を持っているはずだ。その数少ない顕著な一例としてこの作品が、多くの歌好きたちの眼に触れ、耳に届く機会を作りたい。歌社会にある作詩賞が、たまにはヒット作重視を離れ、こういう快作を評価することを、大いに期待したいと思っている。