新歩道橋1103回

2021年5月27日更新



「無名」というタイトルの歌詞は、ずいぶん前から僕の引き出しに入っていた。田久保真見が書いた5行詞で、持って来たのは歌手の日高正人。
 「うん、お前さんにゃ似合いだな。いつ世に出すか、楽しみにしてるよ」
 と、彼を励ました記憶がある。もう喜寿になるが、若いころたった一人で武道館をいっぱいにして〝無名のスーパースター〟を売りにして来た男だ。
 その詞がこの4月、都志見隆の曲、日高の歌で発売になった。
 桜の花ほどの派手さはないが、土手のつくしの真っ直ぐさ…を前置きに、
 〽一生懸命、一生懸命生きたなら、無名のままでも主役だろ
 と一番を結ぶ。僕は昔からよく彼を紹介する時
 「イケメンでもない。いい声でもないし、歌が特別上手いわけでもない。しかし〝一生懸命〟がそのまんま背広を着て、汗水たらして走り回るのを見たら、後押ししたくなるじゃないか…」
 とコメントして来た。
 容貌魁偉、グローブみたいな手でテーブルを叩いてしゃべる感激家で、感きわまるとすぐに泣く。何十年か前から我が家に出入りし、小西会のメンバーにもなっている憎めない男。それがボソボソと「無名」を歌うのは、決して激情が胸につまってのせいではない。5月11日に電話をしたら、
 「歩行器で、やっと歩けるようになった。もう大丈夫です!」
 と、あまり大丈夫そうもない口調の近況報告がある。去年の8月21日に自宅前で転んで首の骨を折った。脳梗塞をやったことがあり、もろくなっていたか。意識不明のまま大病院にかつぎ込まれて手術、12月に退院するところまで奇跡的に回復して、以後ずっとリハビリ生活を余儀なくされて来た。ご難はもうひとつ重なっていた。日高の意識が戻らぬ時期に、母親スエミさんが97才で亡くなっている。彼女に何事かあった時は、僕に葬儀委員長を頼むと、母思いの日高の伝言を受けていた僕も、知らぬままの出来事だった。
 しかし、もともとしぶとい男である。そんな心身ともに最悪の状況の中で、彼は「無名」のレコーディングをした。若いころは大仰なくらいの〝張り歌〟が得意。それが年の衰えとともに〝語り歌〟に転じた。ところがよくしたもので、武骨、世渡り下手のキャラそのままが、優しげな語り口に生きる。それに今回加わったのが、人生の奈落を見た男の、苦渋の息づかいか。
 〽何もなくても温もり情け、そばにお前がいればいい…
 と田久保の歌詞は三番で人生の相棒を登場させる。歌謡詞によくある手法だが、日高の場合はそれが現実に重なった。8年ほどのつき合いの酒場のママ恵子さんの存在で、彼女が日高を献身的に看病した。手術には親族の同意を必要とする。恵子さんは大阪から駆けつけた日高の実妹と相談、急遽日高の籍に入って医師に手術を懇請した。回復しても自失気味の日高の背を押して、
 〽一生一度の人生だ、無名の主役を生きてゆく
 と、この歌を結ばせている。
 僕は昔から日高に、
 「三流のてっぺんを目指せよ」
 と言い続けて来た。一流のスターになるには、それなりの才能と人徳、有力な業界勢力との出会いや、作品に恵まれる地の利、時代の風をはらむための時の運を必要とする。デビュー以後10年前後までにそれを得ぬまま、それでもこの道で頑張るのなら、「三流」の立場を自認、ひそかに「三流」の矜持を胸に、居直る必要がある。そんな境遇の歌手は大勢居る。目指すべきはその軍勢のトップ、つまり〝てっぺん〟ではないのか!
 作品と歌手の行きがかりは不思議である。冒頭に書いたように田久保の歌詞は、以前から僕の手許にあり、彼の生きざまを表現していた。それが日高の再起作として、この上なしのレアな説得力を持ってしまった。コロナ禍で、歌手たちはみな活動の場を失ったままだ。その分日高は、ステージに戻るためのリハビリの時間も与えられたことになる。
 「これが最後です。頑張ります。三途の川からあにさんに呼び戻して貰ったんですから!」
 日高は妙なことを口走った。〝あにさん〟は彼が使う僕の呼び方である。お前が三途の川を渡るのを、俺が止めたと言うのか? この期におよんで、日高は嘘のつける男ではないし、場あたりの冗談にするネタでもない。おそらくはうなされるままの夢にでも、いつもきついことを言う僕を思い出したのだろう。だとすればこちらもこの際、性根をすえて最後の後押しをせざるを得まい。