新歩道橋1110回

2021年9月12日更新



 日本の四季を代表するような映像が次々と展開する。舞台いぱいのスケールと鮮やかな色彩に圧倒されそうだ。五重の塔に紅葉、桜吹雪もあったか? 一望の草原、密集するひまわりの花、雄大に波打つ海、満ちてゆく月の変化…。その光景の中に、男と女の影が白く浮き出て、すぐに溶けて散る。どうやら切ない恋の顛末を暗示、それを市川由紀乃の歌がつなぐ。「ひだまり」彼女が作詞した「満ちては欠ける月」「蝉しぐれ」…。
 この辺までの市川の役割は〝歌う語り部〟で、若い男女のシルエットや彼女の衣装には〝いにしえ感〟が漂う。9月1日夜、渋谷のLINE CUBE SHIBUYA(つまり旧渋谷公会堂)で開かれた「市川由紀乃リサイタル2021~超克」後半の見せ場だ。
 ロマンチックな恋の影絵物語が、突然、生々しい情念劇に転じて、ファンは息をのむ。大詰めの「秘桜」を歌い舞う市川が、ドラマの主人公に変身、
 〽逢いたいよ、逢いたいよ、闇をすりぬけ、抱きに来て…
 と、身を揉むのだ。夢幻の世界から、現し身への転換である。それも作詞家吉田旺がねっちりと書いた、
 〽ついて行きます奈落まで、罪をはらんだ運命恋…
 と、愛憎ただならぬ執念を形にする。客席に背を向けた市川が、振り向く顔には姥の面、もう一度振り向けば般若の面。
 〽燃えて儚い秘桜の、花は煩悩、ああ百八色…
 の結びでは、市川の姿が埋もれるくらいおびただしい花びらが降る―。
 《そこまで作りこむか!》
 と、僕は感じ入る。用意された席「1階6列28番」は、前から3列めほぼ中央で、〝その気〟の市川の表情の変化までが手にとるようだ。
 《そう言えば〝リサイタル〟を名乗るイベントも久しぶりだ》
 なんて感想も生まれる。昔は年に一度くらい、歌い手たちが趣向を凝らし根をつめた演し物を世に問う勢いで、リサイタルの舞台に乗せたものだ。近ごろは〝ライブ〟の方が一般的で、いわば自分ヒットパレード。さほど力み返ったりはしない。そこのところを「超克」の自筆の筆文字までタイトルに使って、市川とスタッフは気合を入れた。彼女はこれまでの自分を超えようとした。コロナ禍で思うに任せない日々を超えようとした。キャパ2000の会場に半分の1000以下の客を入れて、同時生配信の手も打ったが、さて、採算はどうなったことやら。
 おなじみの曲も出るには出た。「雪恋華」「横笛物語」「なごり歌」がショーの導入部に。「心かさねて」と「命咲かせて」はアンコールの出番。何しろ新趣向は他にも二つあって、その一つが埼玉栄高校吹奏楽部とのコラボ。高校生のリクエストで「津軽海峡・冬景色」も歌ったが、密になることを避けて、吹奏楽部のVTRとの協演である。もう一つは、近作でつき合いの出来た吉田旺の作品集。「喝采」「晩夏」「雪」の3曲を、男声のナレーションでつなぐ。人気歌手の主人公が、公演の旅先で別れた彼の訃報を受け取るのが「喝采」のストーリーだが、ナレーションは生前の彼が、彼女に語りかける筋立てになった。
 「こころ穏やかに…」
 というのが、市川のブログの決め言葉だと言う。そういう「穏やかさ」や「ほどの良さ」が、彼女の魅力と思い当たった。いい歌声だがことさらに、それを誇らない。歌巧者ではあるが節のあやつり方に腐心する気配はない。デビュー当時のトラブルから今日まで、平坦ではない道のりを越えた葛藤や努力を示すコメントもない。長身でのびのびした姿態が、舞台を大きめに飾る。売り出し前には先輩たちに並ぶと遠慮して身をちぢめたエピソードも今は昔だ。その愛すべき「穏やか」で「ほどの良い」キャラと芸風が、この夜ばかりはめいっぱい激してみせた。この人の自信と野心の現れだろうか?
 ロビーの一隅に人だかりがあった。「フラワーモニュメント」と言う花の壁で、市川の等身大のパネルも微笑している。そのかたわらに、合格発表みたいな個人名カードが飾られていて、その一部を指さして「あった」「あったぞ!」などという声が行き交う。実はこのモニュメントは、ファンの寄金、一口5000円で作られていて350人分。名札はそれぞれ出資者を示す。時節柄、握手会などの接触を自粛して久しいスターとファンの、新しい交流パターン。この業界の冠婚葬祭を一手に引き受けている花屋「マル源」(鈴木照義社長)の提案とか。なかなかに味なことをやるではないか!