新歩道橋1117回

2021年12月18日更新



「これは俺たちコンビだからこそ生まれた曲だと思うけど…」
 作詞した喜多條忠が言いつのる。秋元順子のシングル用レコーディングが済んだスタジオ。
 「そうだよ。ここまでのもんはそうちょくちょく出来るもんじゃねえよ」
 作曲した杉本眞人も口をとがらせている。楽曲は「なぎさ橋から」で、今年3月25日の話。
 「判っちゃいるけど、これはカップリング。メインは〝いちばん素敵な港町〟でいく。〝なぎさ橋〟はいずれまた、出番が来るよ」
 プロデューサーの僕はあっさり彼等の主張を退けた。
 コロナ禍は勢いを増すばかりの春先だった。東京五輪は「延期か中止」が声高で、秋には選挙がある。菅首相はコロナ対策が後手々々で批判の的だ。こんな厳しい時期に惚れたはれたソングは暑くるしく説得力に欠ける。むしろ
 〽嘘も過ちもみんな人生(中略)生きてゆこうね許し許され…
 と〝港町〟の方は、差別や分断を皆で改め、寛容のコロナ後へ、静かなメッセージを秘めていた。
 結局東京五輪は強行、アスリートたちの活躍でメダル・ラッシュになったが、賛否両論は尾をひき、僕らは「それはそれ、これはこれ」の吹っ切れなさを抱えたまま。衆議院選は菅内閣が最後までバタついたが、ワクチンがきいてかコロナ感染が下火になり、劣勢のはずの自民党が思いがけなく大勝ちした。
 5月26日にCDを発売した「いちばん素敵な港町」はセピア色の港の風景をバックに、おおらかで優しい喜多條の歌詞と、杉本らしい語り口のメロディーが世相になじみ、大方の支持を得た。喜多條は2年越しでがん闘病中だった。告知を受けた時からその報告を受けながら、僕は小康状態を見はからって歌づくりを進める。肺がんが脳に転移、一時視力を失う危機もあったが、喜多條の創作意欲は衰えることがなかった。「あと何編書けるか」などと思い詰めて居はせぬかと、僕はいつもの乱暴なダメ出しをしている夢を見る夜もあった。
 何回めかの退院後電話があったのは10月9日。
 「今回は少しきつかったけど、我が家は極楽だね。体調は一日々々良くなってる。うまい具合に峠は越した。もう大丈夫ですよ」
 勢い込んだ口調で、声に張りがあったものだ。
 《よし、ぼちぼちもう一勝負だな…》
 僕は「なぎさ橋から」を作り直し、再発売する段取りをキングの湊尚子ディレクター相手に詰めに入る。案の定、こちらを支持するファンの動きが、あちこちで起きている。
 〝なぎさ橋〟は実は全国各地にある。「伊東にもあったな」と言った喜多條は、20年ほど競艇評論に没頭して、歌謡界を離れ全国を旅している。その体験が作詞家へ復帰以後の仕事に生きてもいた。伊東は作詞家星野哲郎が生前通いつめた町で、僕はそのお供でよく出かけ、知り合いも多い。星野のお仲間は人後に落ちぬ歌好き揃い。
 《伊東か、一度聞いてもらいに行くか》
 〝新・なぎさ橋から〟は、年内に秋元で再ダビング、来年2月発売のレールに乗せ、喜多條の希望に沿う決定をした。それを伝えるために彼の携帯に電話を入れる。思いもかけず、出たのは輝美夫人だった。その瞬間、とっさに僕は喜多條の病状が重篤であることを察した。胸がつぶれる思いで〝なぎさ橋〟再制作を伝えてくれるよう、輝美夫人に頼むしかない―。
 11月22日、喜多條は旅立ってしまった。信じるまま、あるがままに生きた「無頼の純真」競艇場を軸にした「放浪の旅の孤独」「ギャンブラーの大胆と哀愁」「詩人の繊細」「仕事師の辣腕」「闊達な人づき合い」…数えたらきりがない美点の持ち主だった親友と働き盛りの歌書きを、僕は同時に失った。無念の重さは仲間と「なぎさ橋から」の新装再開店を、弔い合戦として戦い抜くしかないか!
 12月7日夕、TBSで開かれた第63回日本レコード大賞表彰式に出かけた。制定委員の一人である僕の役割は、賞のプレゼンターで「特別功労賞」の楯を手渡す係り。壇上で僕は、日本作詩家協会名誉会長の喜多條忠の分を息子由佑氏に、友人の作編曲家川口真の分も息子真太郎氏に託した。作曲家小林亜星の分は、彼が遺した会社の松井洋佑代表取締役が受け取る。それぞれ音楽界に貢献した大きな功績をたたえての表彰である。他の部門の贈賞は大きな拍手に包まれ喜びのコメントがついた。しかし喜多條も川口も、訃報に接して間もない僕は、拍手など出来ようはずもなかった。