新歩道橋1118回

2022年1月22日更新



 新年、群馬県の高崎から小さな箱が届いた。
 《年賀状の変型かな? 近ごろたまに、アイディアものが来ることがある…》
 差出人は吉岡あまな。そう言えばこの人は社会人になって5年め、高崎に赴任して2年になる。
 少し心が躍って包装をほどく。黒い小箱に「小豆島産 手摘みオリーブオイル EXTRA VIRGIN」の銀文字。120mlの小びんが収められていた。
 《ほほう、これはこれは…》
 と同封された手紙を読む。年頭のあいさつの後に、
 「さて、小豆島の〝波止場しぐれ〟の歌碑のお隣に植樹させていただいたオリーブの木になった実で、今年はオイルを作っていただきました」
 と、見慣れた几帳面な文字。手紙の主は、亡くなった作詞家吉岡治の孫娘である。彼女が植えた木に、オイルが作れるくらい沢山の実がなったのかと驚きながら、大切に世話をしてくれている人がいることに、心からの感謝の思いも綴られている。
 吉岡が作詞、岡千秋が作曲、石川さゆりが歌った「波止場しぐれ」が世に出たのは1985年である。島の青年会議所の代表が上京、吉岡にご当地ソングを作って欲しいと直訴した。瀬戸大橋が出来ることが話題になっているのだが、小豆島はエリア外でその恩恵のカヤの外。危機感から島の若者たちが、流行歌で「島おこし」を計画したのがヒット曲の背景だった。
 安直な思いつきではあるが、吉岡は彼らの素朴な人柄、熱い郷土愛、一途な情熱、無類の人なつこさに感じ入った。うまい具合に作品はヒット、島人と詩人の交友は熱く深くなり、2年後には歌碑が土庄港に建つ。映画の「二十四の瞳」のモニュメントと並んで、島の観光資源の一つになった。それからまた2年後の1994年から、吉岡は島で新人歌手の登竜門イベント「演歌ルネッサンス」を興す。優勝者には奨学金名目の賞金と、吉岡のオリジナル作品を得るチャンスが贈られる。最初から5年限定の「演歌おこし」だったが、育った歌手たちの代表格は岩本公水だ。
 《植樹かあ、さてな…》
 僕は往時を振り返る。歌碑が出来た時は島へ行っていないが、「演歌ルネッサンス」は5年間皆勤。弦哲也、四方章人、もず唱平ら参加の作家勢や各メーカーのディレクターたちと大いに盛り上がった。総集編みたいな番外イベントにも出かけたし、2012年の吉岡の顕彰碑の除幕式にも参加した。何しろデザインした吉岡の長男天平氏の注文で書いた「詩人と島人の絆」の顛末が長文で、それがそのまま石に刻まれたから、光栄と恐縮がダブルになっている。
 記念植樹はその都度やっている。今回オイルになったのは、そのうちどの回のものか? あまなに電話してみたら、
 「私が高校生だったから、歌碑が出来た時だと思う」
 と答えが出た。彼女はその後学習院大学に進み、卒業後は教育システムを開発、教材の普及も手がける会社で働いている。大学に入学する前の休みだった2014年の2月、明治座の川中美幸・松平健公演に出ていた僕らの楽屋で、志願して付き人をやってくれた仲。舞台裏でちょいとした人気者になったものだ。
 吉岡が亡くなったのは2010年5月17日、76歳の初夏で、長くパーキンソン病と闘ったあとの心筋梗塞が原因だった。あれからもう12年が過ぎ、今年は13回忌にあたる。長男天平氏は映像制作の会社を経営、スポーツ関係のカメラマンとして修業をし、最近深川に自前のギャラリー「M16Gallery 」を開いた。彼の長男冬馬君は、吉岡が見ずじまいになった二人めの孫だが、今年7才になるか。
 問題のオリーブオイルを送ってくれたのは、弥助さんだという。確か当時の青年会議所の有力なメンバーの一人で寿司屋の大将。
 《そうか、吉岡のひとと仕事は今も、島でこういう形で生きているんだ…》
 と懐かしい顔を思い浮かべる。小豆島とは縁がつながり、全国規模のカラオケ大会「吉岡治音楽祭」や僕も出演する「路地裏ナキムシ楽団」公演などが計画されたが、コロナ禍で延び延びになっている。何とか今年こそ…と関係者と話しているが、さて、オミクロン株なるウイルスの奴、この猖獗(腹が立つのでワザとむずかしい字を使う)はどこまではびこるのかどこで止まるのか。
 樹木の果実が育つ小豆島の自然のすこやかさと、過ぎる年月のスピードの早さに驚きながら、非売品と言うオリーブオイルを心して賞味する新年、人の縁と想い出が沢山あるのは、何とも嬉しいことではある。