新歩道橋1122回

2022年3月26日更新



 ひと仕事が終わる。「お疲れさんでした」のあいさつのあと、相手の眼を見ると、
 「軽く一杯いこうか!」
 なんて言葉がすい…と出てくる。去年の夏、7月19日の日曜日も、そんな空気になった。神奈川県民ホールで福田こうへいのコンサートを見てのことで、相手は作詞家の坂口照幸。
 横浜の「中華街でも…」と結構その気の坂口に、
 「いっそのこと、逗子までおいでよ。行きつけの中華で〝せろりや〟という店がある。創作系で思いがけない料理が、やけにうまい」
 と、強引にこちらの土俵へ誘うのは、支払いなどで余分な気を遣わせたくないせい。
 この日、福田が歌った新曲は、彼の作詞の「男の残雪」である。男の気概やしあわせ演歌に通じるフレーズなど、欲ばった内容。おそらくは担当プロデューサーの要求が多かったのだろうと推測するタイプだ。もともとかっちりと、彼流の5行詞ものなどで、コツコツ推敲を重ねる仕事ぶり。歌い出しの2行を中心に〝決めるフレーズ〟捜しもする男だ。
 例えば島津亜矢の「縁(えにし)」で書いた
 〽なんで実がなる花よりさきに、浮世無情の裏表…
 大泉逸郎の「路傍の花」で書いた、
 〽人生晩年今わかる、めおと以上の縁はない…
 小桜舞子の「しのぶ坂」で書いた
 〽人の心は見えないけれど、心遣いはよく見える…
 なんてあたりがその例。
 長崎から集団就職列車に乗った。井沢八郎の「ああ上野駅」がヒットした昭和30年代も終わりごろ。坂口がたどり着いたのは東京ではなく、名古屋だった。ここで地元の作詞家の手ほどきを受け、詞を書き始めた歌好き。やがて上京、作詞家吉岡治の運転手を兼ねた弟子になる。当時彼は、うれしいことを言ってくれた。
 「阿久悠さんの〝実戦的作詞講座〟をすみずみまで読んでます」
 講座は僕の依頼で阿久が歌づくりのノウハウを全開陳したもの。スポーツニッポンに2年間、週に一度の連載で、大勢の応募者が腕を競った。上下巻の単行本にしたのが昭和52年。坂口はこれを座右の書にしたらしい。
 何年か後、師の吉岡の逆鱗に触れる。芸事でも同じことだが、修行は「教わるより盗め」が基本。師の仕事や暮らしに密着、種々相を汲み取って己の知恵や財産に蓄える。ところが坂口はその盗み方を間違えたらしい。勘当された後、吉岡を通じて知り合った中村一好プロデューサーに眼をかけられて、その仲間と親しくなる。坂口の詞に多く曲をつけた弦哲也、徳久広司らがそうで、都はるみに「あなたの隣りを歩きたい」を書いているのが、いじらしい。
 彼らは坂口を仇名の「キョショー」と呼んだ。それを「巨匠」と聞き取って、不審を口にしたのは大物作曲家の遠藤実。実は「虚匠」が正解で、坂口を発展途上の詩人…と親しみを込めていたのだろう。師の吉岡は平成22年5月17日、心筋梗塞のため76才で亡くなった。首を切られたままの坂口は通夜葬儀に顔を出していいか迷った。葬儀委員長を務めた僕に聞いて来たから、
 「それはそれ、これはこれ、焼香においで。思い当たるふしはあるんだろうから、霊前に詫びて、これからのことを報告したらどうよ」
 という段取りにした。
 話は去年の夏に戻るが、飲みながら坂口といろんな話をした。前妻ががんの余命宣告を受けたショックを抱えて、懸命の看護をした。彼女が亡くなったあと、僕は、
 「供養の思いは、いい詞を書いて果たすといい。早く立ち直れ!」
 と激励したものだ。それから何年か、今は新しいつれ合いと暮らしていると彼は打ちあけた。それはめでたい。仲間うちのお披露目くらいはしよう! と、僕は提案した。彼は三門忠司の「百年坂」で、式もあげないままの男の負いめを書いていたし…。
 そんな酒盛りからひと月ちょっと。坂口夫人の亜稀さんから葉書が来た。
 「肝硬変で入院しましたが、退院しました。ご心配をおかけして…」
 ガツン! と来た。そうとは知らなかった。坂口は病気のことなど一言も口にしなかったのだ。そして今年3月5日、彼の訃報が届く。アルコール性肝硬変脳出血のため死去、65才、告別式は近親者のみで行う―。
 僕は慙愧の思いをかかえて立ちすくんだ。
 心優しいが世渡り下手のあいつは、中堅作詞家として中堅歌手の詞を多く書いた。結果大ヒットで大成するのはこれから…という矢先の早世である。
 《ハイボールを2杯も飲ませて、もう…》
 訃報から2週間たっても、僕の心には後悔と無念のトゲが刺さったままになっている。