新歩道橋1127回

2022年6月12日更新



 《そうか、今度はその手で来たか、なかなかの生地で、こまやかな仕立て方…》
 そんなことを思いながら、坂本冬美の「酔中花」を聴き直した。ひと晩あいだを置いて、もう3度めになるか。吉田旺の作詞、徳久広司の作曲、南郷達也の編曲と三拍子揃って、冬美の出番が整えられている。
 〽後をひくよなくちづけを、残して帰って行ったひと…
 歌い出しの2行分、結構なまなましいやつを、冬美はスッとさりげなく手渡して来る。メロディーも低めから出て中くらい、声のボリュームも小さめだから、こちらは自然に聞き耳を立てる。ストーリーはおおよそ見当がついた。帰る先を持つ男と置いてけぼりの女。よくあるお話だが吉田旺がひとひねり、「おとな同志の粋な関係(なか)」とわきまえさせておいて、それでいいはずなのにやっぱり気持ちが後を追うから
 〽あたし、ヤダな、めめしくて、とまどい酔中花…
とおさめる。徳久のメロディーもそんな女主人公のココロのうずくまり方を、心地よい起伏と軽めのリズムでスタスタとこだわりがない。「はい、あとは冬美さんあなたなりに、どうぞ!」という気配だ。
 委細承知…なのか、冬美は歌全体を七分目から八分目くらいの声の使い方で、言葉のニュアンスに歌唱の重点を置く。1コーラスに四、五個あるキイワードとサビのフレーズはきっちり立てて、後はそれぞれの語尾の息づかいで仕立てた。決定的なのは各コーラスの歌い収めの「酔中花」の「か」の伝え方。その前に一番から順に「とまどい」「ゆらゆら」「さみだれ」とある気持ちの揺れ方をそのままに、ふっと吐息まじりに〝置いて〟みせての「か」なのだ。不実な男にひかれながら、そんな自分をいとおしむ風情もあって、聴くこちらはその最後の最後の「か」で殺された。
 「夜桜お七」と「また君に恋してる」を転機に、演歌からポップスまでオールマイティの世界を構築した人である。どんなタイプの楽曲を歌っても、一声で冬美と判る声味がオリジナリティの源。それは張った時の声の輝きと哀感に代表されていた。それがどうだ、今作くらいに抑えめに歌っても、きちんとその魅力は維持されている。おおらかに「広げる」寸法から、こづくりに「ちぢめる」歌い方に変化して、手に入れた構成力と訴求力が、この人のこのところの進化、稔り方かも知れない。カップリングは名作「紅とんぼ」だが、作曲者船村徹に聞かせたかったくらい〝語尾の情感〟が生きている。
 「俺でいいのか」以来、もう3年になるのか。あれも吉田・徳久のコンビで、なかなかの出来栄えだった。「ブッダのように私は死んだ」には少々おどされたが、坂本冬美の歌手としての〝本籍〟はやっぱり演歌だと思っている。ドレスの冬美もいいが、時には着物でこのタイプを決めてくれれば溜飲が下がる。そんなファン心理を読み切るように前作は男唄、今作は女唄。
 「なかなかの手並みと言わざるを得ないな」
 ついこの間、日本アマチュア歌謡連盟の全国大会で一緒になった山口栄光プロデューサーに、そう言えばよかったなと思う。審査員紹介の舞台から、小さい即席階段を客席へ降りる足どりがおぼつかなくて「肩を貸してよ!」と頼んで介護!? されたばかりに、そっちに気を取られた。
 さて、もう一度冬美だが、9月20日から一カ月、明治座公演をやるチラシが届いた。中村雅俊と共演で演目は「いくじなし」とある。平岩弓枝作、石井ふく子演出のこの作品は、浅草龍泉寺町の裏長屋が舞台。水売りの六助は気のいい男だが、下町気質のおはなの尻にしかれっぱなしというのが冬美と中村の役どころ。それが夏のまっ盛りに井戸の水が涸れたからさあ大変、井戸替えの人手集めに聖天町の世話役甚吉がやって来て―と、何でそんなことを知っているかと言えば、実はこの作品、3年前の2019年6月に、川中美幸・松平健の大阪新歌舞伎座公演でやっていて、僕はその甚吉をやらせてもらった経緯がある。
 出番は一カ所だが、川中・松平両座長にからんだいい役。スポニチの記者時代に何度か会っている石井の演出だから大いに緊張した。その旨に加えて「こんな身分になってからは、初めてお目にかかります」とあいさつ。せっせとけいこに励んだが、演出家からのダメ出しがない。心細くなってお伺いを立てたら「いいんじゃない」と微笑を返されたものだ。さて9月冬美の「酔中花」も聞きに行くが、甚吉役はどなたが? というあたりも、興味津々である。