新歩道橋1135回

2022年10月10日更新



 取材のアポを取ろうとしただけなのに、相手は、
 「会いたくない」
 と言う。北海道在住の人だが、こちらも粘って、
 「そっちへ行くけど、いつごろがいいです?」
 と聞くと言下に
 「来ないでくれ。来ても会えないよ」
 と答えた。声に不機嫌な気配もないことだし、とりあえず出かけた。千歳空港に着いて電話をしたら、
 「来ちゃったの。困るなあ」
 と言いながら、落ち着く先を教えてくれた。札幌の北海道放送そばの喫茶店。現れた作曲家彩木雅夫は、その期におよんでもまだ、迷惑そうな表情を隠さなかった。
 50年以上も前のことなのに、そんなやりとりを今でもはっきりと覚えている。取材されることをこんなに嫌がる人も珍しかったし、彼が書いた「長崎は今日も雨だった」という曲も何だか不思議だった。愛した人を探してひとりさまよう長崎、なぜか雨ばかりだとボヤくばかりの永田貴子の詞に、彩木の曲が妙にダイナミック。それをまた内山田洋とクールファイブのボーカル前川清の歌がまるで吠えるようだ。
 九州と北海道を結ぶと、こんなにパワフルなミスマッチが生まれるのか? 彩木に会いたかったのは、東京では見かけないこの種の流行歌の謎を解きたいからだった。会ってみれば彩木はテレビ局プロデューサーで、やたらに機嫌が悪いのは、ヒット曲を生んだあとの周辺の変化に、立ち場上困惑しているせいと判った。
 「どういう狙いでああいう曲にしたのか?」
 と言う問いにも、
 「自然にそうなっただけだよ」
 と、さしたる意気込みはない。僕は少々拍子抜けしながら、この先の作曲活動を尋ねた。東京へ出て一旗あげるのか? 彩木は滅相もないという顔つきで、否定した。
 その時期僕は、小澤音楽事務所の小澤惇社長の相談に乗って、菅原洋一の「知りたくないの」「今日でお別れ」などのプロモーションに助言をし、作詞家石坂まさおの藤圭子売り出しの相談にも乗った。「新宿の女」をアピールする「新宿25時間キャンペーン」を提案、その現場にもつき合っている。スポニチが主催した「シャンソンコンクール」で優勝、友だちになった加藤登紀子は「ひとり寝の子守唄」を自作自演、フォーク勢の一角に食い込んでいく。
 それやこれやでピリピリと刺激的な日々に「密着は癒着ではない」と芸能記者としては一線ぎりぎりの体験をしながら、僕は流行歌が生まれ、育っていくまでのルポをせっせと書いていた。そんな中での彩木の存在感は、おっとり善い人ふうで微温と感じたから、記事は前川の異才ぶりに的をしぼり直した。
 しかし、彩木雅夫はやっぱり只者ではなかった。北海道放送のプロデューサーとして応分の活躍をし、事務所も興して東京の歌謡界と連絡を密にし、やがて札幌の名士になって行く。年に一度のフジ産経グループのボス羽佐間重彰さんの会では、必ず上京した彩木と顔を合わせた。テレビマンとしては相変わらず地味めな立ち居振舞いだが、よく見ればじっくりいい仕事をしている自信をにじませてもいた。
 彼が書いた殿さまキングスの「なみだの操」は、コロムビアがぴんからトリオで大ヒットさせた「女のみち」のビクター版後追い企画。しかし彩木の仕事は、そんな意図を超越するオリジナリティを感じさせて軽快だった。驚いたのは森進一に書いた「花と蝶」の出来栄えである。川内康範ならではの妖しげで濃密な4行詞に、予想外のメロディーをつけて、森の呻吟する歌唱を引き出し、生かしている。特異な女心ソングで頭角を現した森のレパートリーに、この作品はやや文学的な深さまで加えてはいなかったろうか。
 その彩木雅夫が9月16日肺炎のため死去した訃報に接した。89才、密葬が営まれ、11月3日には札幌パークホテルで音楽葬が開かれると言う。北海道に根をおろし、東京の歌謡界を望見しながら、いい仕事をしたいい人生だったろう。発表した楽曲が200曲余と寡作なことにも、彼らしく図に乗って浮かれない手堅さがうかがえる。
 3つ年上の彩木の穏やかな笑顔を思い出す。
 「うん、お互いに元気でな…」
 と年に一度、羽佐間さんの会で会うごとに、彼が言った一言も思い出す。
 《11月か、北海道はもうかなり寒いな、すすき野あたりでスポニチ北海道の連中と一杯やるのも悪くないか…》
 僕は彩木の音楽葬に心ひかれる。「行くよ」と言えば彼は今度も
 「来ないでくれ」
 と、ボソっと言うのだろうか?