突然「司馬江漢〝東海道五十三次〟の真実」という書物(祥伝社刊)に出っくわした。對中如雲(たいなかじょうん)という人が筆者で、帯には「はたして広重はこの絵を見たのか?」「元絵論争に最終決着」というフレーズが躍る。美術関係には全く門外漢の僕にも、広重はあの浮世絵の歌川広重と判り、彼が東海道五十三次を絵にしていることも知っていた。とすると司馬江漢の五十三次との関係は一体どうなる? 広重のオマージュとするのか、それともパクリとするのか?
《えらいこっちゃ、これはにわかに迂闊なもの言いは出来ないぞ!》
面白そうなら何でも飛びついたスポーツニッポン新聞の、カワラ版記者のころの血が騒いだが、
《それにしても、何でまた彼が、こんなことに首を突っ込んでるんだ?》
接触して来たのは、古い友人の奥田義行氏である。「司馬江漢研究会」というのの副代表になっている。電話をかけたら、
「あんたなら乗る話じゃないかと思ってさ、ははは…」
と、昔と変わらない声で笑った。知り合ったのは彼がザ・スパイダースのマネジャーだったころと思う。グループサウンズ・ブームの主導者スパイダースのリーダー田邊昭知と親しくなった僕は、「ウエスタンカーニバル」の日劇の楽屋に入りびたりだった。リーダーの客分として扱われた僕は、彼を「奥田!」と呼び捨てにしたように思う。その後奥田は井上陽水がデビュー当初アンドレ・カンドレを名乗っていたころを担当したり、RCサクセションの忌野清志郎を手がけたりした。
「いつまで西洋乞食のお先棒をかついでいるんだ、うん?」
と、私淑していた作曲家船村徹に言われたころだ。スポニチにGSがらみの記事をでかでかと連発する僕がシャクにさわったのだろう。
「あれはな、停電したら成立しない音楽だぞ」
酔っての放言だが、若者の音楽とエネルギーを認めながらの八つ当たりだった。
奥田氏の活動はやがて、音楽制作者連盟のボスになり、テレビ、ラジオなどでどの楽曲が使われたかを、即刻克明にチェックできるシステム作りにかかわったりしたが、その後はすっかり疎遠になっていた。聞けば4年ほど前に、この業界を卒業して転居した伊豆高原で、冒頭の對中氏と出会ったらしい。對中氏は伊豆高原美術館(現在閉館)の館長などを務めた人で、30年前に江漢(1747~1818)の五十三次の肉筆画に魅入られ、以後その研究に没頭して来た。同時代の広重(1797~1858)が実は東海道五十三次を歩いた事実がないことが、江漢を〝元絵〟とする根拠らしい。
それにしても芸能の仕事とはまるで畑違いの分野になぜ? と聞いてびっくりした。奥田氏の趣味は古美術や中国骨董。もう20年も続けている中国の書道で、賞も取っているという。聞いてみなければ判らないものだし、人は見かけによらぬもの(失礼!)で、長いつき合いを重ねても、人の素顔や正体まではなかなかにうかがい知れないものと、つくづく思い当たる。奥田氏は昔ながらの才覚で、この研究のための資金集めまで手伝っているらしい。
《趣味が老後に生きて、第二の人生というのもうらやましい。そこへ行くと俺は…》
なんて、当方は肩をすくめる。僕の〝はやり歌狂い〟は、中学、高校時代からの〝趣味〟だった。上京してスポニチのボーヤ時代は、ラジオののど自慢に出たり、流しのまねごとをしたりと結構楽しんでいた。それが音楽担当記者に取り立てられて以後は〝仕事〟になってしまった。好きこそ物の…のたとえもあるし、歌社会にどっぷりつかって今日まで、多くの人々との縁にも恵まれて、望外の幸せな日々を送って来た。この年になってその上に、何を望むか、何をうらやましがるか…と自分を叱咤するのだが、しかし、少し残念なことに僕には〝趣味〟そのものがなくなってしまっている。
冒頭の部分で僕は広重の仕事をオマージュかパクリかと書いた。「パクリ」は芸能界チックな表現で、この際、不穏当で下衆っぽいかも知れない。資料をもとに仕事をするという作業はどこの世界にもあることだ。對中氏の著書には巻頭110ページにわたって、江漢と広重の絵が、宿場ごとにカラーで並べられ、対比の妙を示している。「そう言われればそうか」「しかしなあ…」と、ド素人の僕がそれを見比べたところで答えなど出しようもない。長い年月、洋の東西の専門家が研究を続けている一件である。これもご縁だからせめて、友人の奥田義行氏のこの件の今後を、面白がって追っかけてみることにした。