新歩道橋1140回

2022年12月18日更新



《そうか、これが今年最後の大仕事の証か…》
 12月、眼の前に積まれた本に、感慨がひとしおである。栃木の下野新聞社が出してくれた「ロマンの鬼船村徹~私淑五十年小西良太郎」だが、船村の故郷のこの新聞に、2年ほど連載したものに加筆。内容とにらみ合わせて、船村語録を50近く添えた。昭和38年夏、スポーツニッポン新聞の駆け出し記者として初めて会い、私淑して54年「物書きの操と志」を学んだ師とのあれこれだ。この本が何と、年末までに300冊余も音楽関連の人々のもとに出回った。これまでに何冊か本を出したが、こんな僥倖に恵まれたケースはない。
 《結局のところ、最後までお世話になっちまったことになる…》
 船村家のお陰なのだ。来年2月16日が、船村の七回忌にあたる。ところがまた尻上がりのコロナ禍。法要の会を催すかわりに、船村のCD6枚組ボックスと、僕の本を関係者に届けようということになった。船村夫人佳子さんと娘の渚子さん、息子の蔦将包の夫人さゆりさんの心尽くしだ。船村もにぎやかなことは好きだったが、ウイルス蔓延の心配事を抱えたまま、人を集めることなど望まないだろう。船村家の発案に、僕は一も二もなかった。
 「生誕90年記念、七回忌に向けて」がサブタイトルのアルバム「愛惜の譜」が何ともいいのだ。おなじみの名曲のほかに、グッと来る佳作が揃った自作自演盤。本でも触れたが「泣き虫人生」「ハンドル人生」「三味線マドロス」「男の友情」など、高野公男との初期のものから「希望(のぞみ)」「東京は船着場」「愛恋岬」「新宿情話」など、どれを聞いても船村身上の〝哀歌〟だからしみじみ沁みるのだ。
 振り返れば僕は、新聞記者の昔から今日まで、密着取材に没頭して来た。相手さんがそれを許してくれる場合に限るが、𠮷田正、船村徹、星野哲郎、阿久悠、吉岡治、三木たかし、美空ひばりなどがその例。取材対象に一定の距離を保ち、第三者的立場を取るのが公平無私の記者だと言われれば、公私ともにドップリの僕流は邪道だろうが、心中期したのは「癒着と密着は違う」の一言だった。茨城の田舎の怠惰な高校卒の僕は、一流の人々から生き方ぐるみで多くのことを学んだ。船村や星野を師と仰ぐのはそのせいだ。
 今回の出版で、僕は二人の師を書くことが出来た。「海鳴りの詩・星野哲郎歌書き一代」と今作で「ロマンの鬼」は星野が書いた船村への献辞から引いた。これまた幸せなことに、船村を学ぶことは星野に通じ、星野を追跡すれば船村を知悉することで表裏一体。おまけに二人は、美空ひばりをはさんで知り合い、昭和最後のヒット曲「みだれ髪」を書くまで、親交を深めている。僕はそのひばりの晩年にほぼ15年間密着「美空ひばり・ヒューマンドキュメント」「美空ひばり・涙の河を越えて」の2作を出版する光栄に浴した。いずれにしろ、先に挙げた作曲家3人、作詞家3人、歌手1人については、一番長く一番そばに居た取材者だった。
 6年ほど前になるが「昭和の歌100・君たちが居て僕が居た」を出版した。戦後のヒット曲100曲についてのエピソードを縦糸に、僕の歌まみれの半生を横糸にからめた内容。歌謡少年が流行歌記者になり〝はやり歌評判屋〟の今日までがちらついている。読後感として「面白かった」の声を頂いたが、一部に
 「俺が俺が…の自慢話ばかりで、鼻についてやりきれない」
 というお叱りも頂いた。何ごとによらず自慢話は避けるべきだが、僕が書くものはすべて、私的部分が色濃い「体験記」である。演歌・歌謡曲を作り、歌う人々に伴走して、その実態を伝えている。個人的なかかわり方が、ヒット曲の場合、どうしても自慢話に受け取られがちになるが、では、それをどうするべきか? おまけにプロデュースにまで手を伸ばしている。新聞社づとめのまま、レコード大賞を取ったり、その他の賞で、作家や歌い手とハイタッチをした例も少なくない。その間の経緯を書けば、これはもう自慢話そのものになってしまう。
 馬齢を重ねてとうとう、師匠2人の没年を越えてしまった。86才、さて来年はどういうタッチで物を書いたものか? と、反省もまじえながら、これが今年最後の回である。ご愛読を深謝しながら、しかし「性分って奴は変わらねえだろうな」などとも考えている。