新歩道橋1143回

2023年2月23日更新


 
 作詞家もず唱平は沖縄に居る。当初は大阪が寒いうちだけと言っていたが、昨今はどっぷりあちらで、活動の拠点とした気配だ。昨年の秋「沖縄発ニューレーベル」を標榜する会社UTADAMAMUSICが生まれた。第一作がもずが作詞した「さっちゃんの聴診器」で、弟子の高橋樺子が歌って今年1月の発売。沖縄インディーズだが、徳間ジャパンと提携、全国で販売されている。
 「さっちゃんの聴診器」は不思議な訴求力を持つ歌である。冒頭から何度も繰り返すフレーズが、
 〽もっと生きたかった、この町に、もっと生きたかった、誰かの為に…。
 の2行で、その間にいかにももずらしいオハナシの4行がはさまる。いずれもさっちゃんの聴診器が聞き取った形だが、例えば鳶職の権爺からは故郷の祭囃子、19才のフーテンの背中では、風邪をひいた入れ墨がべそをかく。昔、有名だった踊り子の乳房からは、かつての喝采とタップダンスの音が聞こえる…といった具合いだ。
 もずがこの詞を書くきっかけになったのは、NHKテレビのドキュメント番組だった。驚いたことに彼のデビュー作「釜ヶ崎人情」がモチーフで、主人公は当地で献身的な医療に従事した女医矢島祥子さん。〝西成のマザー・テレサ〟と呼ばれ愛された人だが、30代で不審死をとげている。自殺他殺と双方の見方が今も残るが、もずはその若い死の無念を、繰り返しのフレーズにこめた。思いの強さは歌の終盤にあきらかで、高樺の歌声のその部分に男声コーラスが寄り添い、最後の「誰かの為に」は絶叫みたいなたかまり方を示す。気づいて欲しいのは社会貢献の貴さだろう。
 沖縄に生まれた「株式会社UTADAMAMUSIC」の社長はもずの秘書の保田ゆうこ。ビクターを振り出しにメーカーを転々とした藤田武浩が役員で加わり、もずは「顧問」だが、彼の今後の活動の拠点になろうことは明白だ。もともと沖縄の文化や音楽に関心を持っていた彼は「大衆音楽の成功はハイブリッド」と思い定めており、沖縄と日本の音楽の融合の手伝いを始めた。本人に言わせれば、
 「80代に入って、人生卒業のシーズンを迎えた。この際新しいハイブリッドの具体化を考え、およばずながら、若い世代のためのタネまきもしたいと思っている」
 ということになる。
 唯一の弟子高橋樺子のためのシングル・リリース計画というのがあって、矢島敏が作曲した「さっちゃん…」を皮切りに、4月に「ウートートー」(仲宗根健作詞、矢島作曲)7月に「うりずんの二人」(高林こうこ作詞、田中裕子作曲)10月に「人生は歌」(もず作詞、矢島作曲)と矢つぎ早やだ。矢島敏は矢島祥子さんの実兄でミュージシャン、仲宗根は沖縄のカラオケの先生、高林は大阪在住で、もずの長年の友人と人脈もハイブリッドふう。この4作品で、インディーズ活動を一気に全国区に育てる目論みと見てとれる。
 歌手高橋樺子は明るく率直な歌唱が魅力の〝歌うお姉さん〟タイプ。東北大震災では仮設住宅に泊まり込みの支援活動を続け、地元の人々が無名の彼女を「仮設の星」「私たちが育てたハナちゃん」と応援するほどの親交を深めた。音楽健康指導師の活動も兼ね、今は「さっちゃん…」のプロモーションで全国を走っているが、東北支援も欠かすことがない。この歌の穏やかな訴え方は、聴診器を聞く人々に、
 〽渡して聴かせる我が胸の、呼気は今宵も生き生きと…
 と、もず本人の心境まで吐露して聴こえる。80代も中盤、お互いに加齢による体の不具合いも抱える仲だが、俄然〝その気〟のもず唱平が少々まぶしいくらいだ。
 それにしても…と思い出すのは、彼の出世作「花街の母」の難産。民謡出身の金田たつえが歌謡曲に転じることに反対したメーカーや関係者が、レコード販売地域を関西に限る〝おしおき〟をした。以後金田は3年におよぶ行商・宣伝活動で、この歌をヒット曲に育てた経緯がある。あれは近ごろ歌手たちが展開する手売り・プロモーションのはしりかも知れないが、もずはその実態を身近に体験している。そういう意味では、最初からインディーズ活動で頭角を現わしたような作家で、それが高橋のための強気4連発に現れてもいようか?
 《それにしても、ずいぶんせっかちになったもんだ…》
 僕は近ごろ、もず唱平の長電話や、きかん気の顔つきを思い浮かべながら、那覇地方の天気予報をテレビで、まじまじと見据えたりしている。