新歩道橋1145回

2023年3月25日更新



 過日、秋元順子が東京・丸の内のコットンクラブで歌った。ジャズを中心にした曲ぞろえがお手のもの、長いキャリアで身につけた〝ゆとり〟が窺えるステージになる。トークの多くに付くのは駄ジャレのオチで、ベテランの風格と下町おばさんの庶民性が交錯する。ファンにとってはその落差が楽しいらしく、「さあ、笑うぞ!」とばかり、駄ジャレ連発を待ちかまえる気配…。
 終盤にオリジナルを歌った。「愛のままで」「なぎさ橋から」「一杯のジュテーム」。彼女の出世曲の「愛のままで」は花岡優平の曲が、なんともなんとも…の魅力で「これはヒットするはずだわ」と合点がいく。「一杯のジュテーム」は、NHKの「ラジオ深夜便」がらみで、おかゆの作詞、作曲。秋元をしっかり勉強したらしく、今ふうのさらっとした作品で、あえて秋元に〝歌わせない〟狙いか、彼女が声を張る部分がほとんどない。近ごろのポップスの流れに浮かべた趣向なのだろう。
 《さて、反響はどうかな?》
 と、僕が身構えたのは「なぎさ橋から」だった。
 喜多條忠の詞、杉本眞人の曲で、亡くなった喜多條の最後の作品。制作にかかわった僕は、このコンビでシングル「たそがれ坂の二日月」「帰れない夜のバラード」「いちばん素敵な港町」を作っている。「なぎさ橋から」は三枚めのカップリング曲で、
 「3年やって、きっちり芯を食ったな…」
 と、作家二人と笑い合った出来。それなのにあえて「いちばん素敵な港町」をメインにしたのは、この作品がアフター・コロナ、ウイズ・コロナの穏やかな日常を提示したせい。やはり新聞屋くずれの僕らしさが抜け切れていない。芯をくった「なぎさ橋から」は、後でメイン曲に仕立て直して世に出したが、これは当初からの作戦だった。
 手前ミソと笑われるのも承知で書くが、コットンクラブでの客の反応は、なかなかに熱かった。ことに女主人公がバスで去る彼に手をふる最後が、ドラマチックに生きた。
 〽何度も何度も手を振る…
 というフレーズが、それこそ何度も繰り返したあげくに、
 〽あなたに、手を振る…
 が、悲痛なくらいにたかぶって、歌が終わる。秋元のレパートリーとしては、珍しい生々しさが、客の胸に届いたろうか?
 せっかくの作品だったが、「ラジオ深夜便」での多めの露出もあって、メーカーはおかゆ作品に切り替えている。それはそれで今日びの商売だろうが「なぎさ橋から」は、秋元が歌い続けてさえいれば、すぐに陽の目を見直すだろう。
《しかし、歌手にとっていちばん大事なのはやっぱり声だな》
 と、ごく当たり前のことを再確認する。秋元が60才を過ぎてからでもブレークしたのは、あの声の持ち主だったせい。そういう意味では彼女は、歌の神サマに選ばれた一人だろう。もともとプロの歌手は、そんな独特の声の持ち主に限られる職業。しかし、神サマに選ばれる稀有の才能はごく少ししか居ないから、はやり歌商売はカタログ揃えのために似て非なる歌手を量産する。本人の悲願を果たしてやろうとか、アイドルになれそうなキャラがいいとか、節回し歌唱力はこれでなかなか…とか理由はさまざまだろうが、不足分は作品の良し悪しで補う。
 秋元が手中に収めたもう一つのよさは、客質に見える。男女ほぼ同数の熟年層。それが〝昔からのつき合い〟みたいな親密さで集まってくる。思慮分別のある年齢層だから、熱狂的にはならないが、コンサート会場にはいつも、彼女の世界を〝共有〟する気配が濃い。平たく言えば〝仲間内〟なのだ。この世代はCDを買わない…という共通認識が、メーカー内にあるが、それはJポップなど若者ものに比べてのこと。神サマに認められた声の持ち主に、応分の作品を揃えれば、歌をどんな容れ物に託しても、売り上げはそれなりに堅調を示すはずだ。
 そんな考え方で、これまでも秋元作品を用意して来た。奇をてらった目立ち方よりも、彼女なりの本格派ぶりを手さぐりする。喜多條・杉本コンビは、十分に期待に応えてくれた。
 《さて、この辺で少し手をかえようか…》
 僕は次作の候補に作詞の田久保真見、作曲の田尾将実を考える。二人とも頼り甲斐のある才能の持ち主だし、僕とは長くごく親密なつき合いが続く。その手前、半端な詞、曲を届けて来る気づかいは全くないだろうと思っている。