新歩道橋1146回

2023年4月8日更新



 試合前に選手たちを集めて語るメッセージを、近ごろでは「声出し」というらしいが、WBC決勝戦直前の大谷翔平投手の発言は、そんな生易しいものではなかった。
 「憧れるのをやめましょう。トラウトが居て、ベッツが居て、誰もが聞いている選手が居るが、僕らはトップになるために来た。今日一日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけを考えていきましょう」
 僕ら世代はこれを「檄を飛ばす」と表現する。声高な激しさこそなかったが、ものの見事に的を得て、選手たちの胸を打ったろう。米大リーグで活躍した先輩たちや、今、ここに居る大リーガーたちは、アメリカに憧れて彼の地へ入った。まだ国外へ出たことのない選手たち、ことに若い投手たちも同じ憧れを持っていたはずだ。
 ごく率直に、大谷は胸の裡を語っていた。
 「今日一日だけ、大リーグへのリスペクトを捨てよう」「リスペクトしているうちはとうてい勝てない!」
 僕はテレビで〝大谷檄〟を全文聞き、テロップでも読んだ。淀みない口調と、それ自体が立派な文章になってる見事さに驚いた。
 《もしかすると、スピーチ・ライターが居るのか?》
 と疑ったが、苦笑してすぐそれを打ち消した。大谷自身のこれまでの発言が、程の良い本音と滑らかな口調で貫かれていることに気づいていたせいだ。その場を思いつきのフレーズでしのいでいく気配がまるでない。僕はその陰に、筋肉や技を鍛えるだけに止まらず、彼が生き方考え方まで鍛錬して来た日々を感じる。ここまでしっかりと自分を語れるスターを見たのは初めてだ。
 まるで劇画みたいな、あるいは大方の想像を超越する場面を連続させたのが、今回のWBCの侍ジャパンだった。その名場面は後日何度繰り返して見ても、心躍る楽しさがあった。そして、それを語る栗山監督の発言もまた、実に見事だった。ことに日本プレスクラブで語った2時間近くを、僕はあきれ返る心地で見守った。
 「全ての選手がみんな、本当に力があり、凄いメンバーが、頼むぞ、信じているぞと、力を合わせてくれた感じです」
 「みんなが自分の役割をしっかり果たしてくれた素晴らしいチームだった。野球ファン全員の思いを込めて〝ありがとう〟を言いたい」
 「野球の面白さ、凄さ、怖さを選手たちが見せてくれた。この選手たちのお陰で、多くの子供たちが野球をやってくれるようになると思う」
 「これからも是非、野球のことをよろしくお願いします」
 チーム作りから全試合の陰には、彼ならではの深謀遠慮があったはずだが、それについては多くを語らない。むしろ言葉を継いだのは、選手たちを信じる力、それを各人に十分に伝える力、そのために細心の準備をし、必ず正面を向き合って話した…ことなど。もしかすると栗山監督の勝利は、野球少年時代からの夢、それを今日の采配に生かせた研鑽、それを伝えた選手たちへの信頼だったのかも知れない。
 僕は作家の井上ひさしが遺した言葉を思い出す。
 「難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことを真面目に」
 これは文章で伝えることの要諦として、僕がしばしば思い返している言葉だが、栗山監督、大谷翔平の二人の言動に共通していたように思えた。ことに強く感じたのは、伝えたい相手との目線の合わせ方で、二人にはポーズなどでは決してない、真摯さでそれを感じた。
 これまで、各ジャンルの指導者に目立ったのは「上から目線」と、自分流の哲学!? の「押しつけ」だった。学ぶ側はそれを当然みたいに受け止め、相手の真意を汲み取ろうとし、かなり厳しい時間を過ごす。判ればいいが、判りそこなったらそれまでよ…の〝自己責任〟か。またスター級の人々には、とかく多くを語らないことを美徳と心得る向きが多い。質問にきちんと答えず、言葉少なに切り上げることを潔しとする姿勢はいかがなものか。
 そういう意味では栗山監督と大谷翔平の〝謙虚な能弁〟は、得難いものである。ことに大谷はプレーの厳しさと実績がこれに加わっており、彼の二刀流を完成に近づけたのが栗山監督なのだからなおさらだ。
 この二人の脚光の浴び方と、それに対応する(あるいは対応出来る!)姿勢に僕は、野球だけではない、〝新しい時代〟の到来を感じた。この欄には初めて珍しいネタを書いた。加齢により、体にあちこちに不具合いを生じた結果、WBC侍ジャパンの全試合をテレビ観戦、興奮したあまりのことである。