新歩道橋1147回

2023年4月24日更新



 ふっとなぜか、涙が出そうになる〝いい歌〟と出っくわすことがある。理由を考えてみる。①時代背景がはっきりしている②いつまで経っても忘れられない体験そのものが詩に生きる③その光景と向き合う主人公の視線が一途だ④歌表現も率直で、余分な感情移入がない⑤そういう歌唱を可能にする、すずやかな玉のような声の持ち主である―。
 ざっと数え上げれば、このような特性を持つ主である。牛来美佳(ごらい・みか)というシンガーソングライターの歌で「いつかまた浪江の空を」という曲。僕が歌詞の一行目から、ウルッと来たのは、東日本大震災を舞台にすることを、あらかじめ知ってもいたからだろう。震災以前からこの人は福島県浪江で育ち、被災時は第一原発内で働いていた。当時5才の女児と母子家庭として避難した先は、群馬県太田市。そこを拠点に音楽活動を始める。東方神起、JUJU、西野カナらに作品を提供、ボランティア活動にも活発な山本加津彦との共作。影響は大きく広がり、ももいろクローバーZの佐々木彩夏がプロデュースする地元アイドルグループ「浪江女子発組合」が、この曲をメインにアルバムを作っているという。
 〽遠く遠く 窓の外を眺めて、元の未来 探すけれど どこにあるの(中略)伝えたくて、諦めたくなくて、想い歌に叫ぶけれど どこに届くの(中略)いつかまた 浪江の空を またみんなで 眺めたいから 歩くよ どこまでも歩くよ 涙がいつか 笑顔に変わる日が来る(中略)浪江で会おう!
 中略をはさみながら、歌詞全体の要旨をまとめるとこうなる。世界的な惨事のあれこれをあげつらうことなく、復活への渇望を一途に語り、訴え、祈りつづける。
 「歌は伝えるためのものであり、一人ひとりの心に届ける歌手でありたい。それが私が歌うことの使命です」
 牛来はそう決意して歌いはじめたという。
 山本と組んだプロジェクトは、YouTubeから若者の支持を集め、牛来のチャリティコンサートは1000人規模に育ち、地方メディアが注目、それは中央メディアの目にも届いた。エフエム太郎(群馬・太田)エフエム桐生(群馬・桐生)などのラジオパーソナリティーの仕事もふえる。また、2022年10月、東京ドキュメンタリー映画祭で上映された「福島からのメッセージ」のエンディング・テーマになり、この映画はカザフスタン、キルギス、ウズベキスタンでも上映されるという。
 実にきちんと計画された作業の戦果とも言えそうだが、東京に居て入手できる情報ではなかった。音を聞き、資料に目を通して、まさにあれよあれよである、外国にまで歩を伸ばすということは、歌詞と遜色のない、美しく親しみやすく、みんなが賛同しやすい、見事なメロディーがついているせいだろう…と、もはやベタ褒めになってしまう。冒頭に書いた〝いい歌〟の要件のうち①②③④⑤はヒット曲づくりの要諦のはずだ。あとは作品に似合う声そのものだろう。
 横道にそれるが、ボランティア・キングとでも呼ぶべきは杉良太郎と考えている。当初「売名行為」とさんざんたたかれたが、今や「継続こそ生命」のおもむきまで呈している。昔、ホテルの玄関で見慣れぬ旗を立てた高級車から降りる彼と出会った。
 「どこの国旗だい?」
 「ベトナムだよ。いろいろ忙しい。それより同名のよしみだ。一緒に芝居やろうよ」
 「ああ、そのうちな…」
 そんな立ち話になったが、あれから彼はベトナムに、一体いくつの学校を作ったことだろう。
 「いつかまた浪江の空を」に戻る。震災前の浪江の小学校の生徒数は浪江558、幾世橋122、請戸93、大堀157、苅野174、津島58だったが、その多くが命を失った。全部休校となり、60キロ離れた二本松市の仮校舎に統合されたが、21年3月に閉校、最後の卒業生は一人だけだった。CD最後の1フレーズ、
 「浪江で会おう!」
 を歌っているのは、2015年に仮校舎に通っていた21人の生徒である。これがまた最後の最後に、僕の涙腺をゆるめた。生徒たちの声がみんな元気で、陰りもなく「明日の希望」を歌うのだ。その無邪気さは
 「また明日な!」
 と茨城・筑波の原っぱで手を振った僕の幼児体験に重なった。惨事をモロに体験した彼らにも、それを情報としてしか知らぬ僕らの今日にも、きっと夕焼けの空はまっ赤だろう。祈りをあっけらかんとリフレインする彼らと、絶対に風化させてはならないと念じる僕が、一本の熱線でつながった心地がした。