新歩道橋741回

2010年8月13日更新


 
 深夜帰宅する。受信したFAX数枚の中に、また訃報が混じっていた。亡くなったのはプランニング・インターナショナルの田村廣治会長で、8月3日、入院中の病院で心不全ため死去、69才。留守電の数は電光数字で12、きっと彼の死に驚いた友人たちからのものが多いだろう。
 《くそっ! ここ2、3日、妙にあいつのことが気になっていた矢先のことだ!》
 僕はFAX用紙を手放せず、留守電を再生する気にもなれない。
 昭和42年だからもう43年も前の話だが、僕は彼と一緒に茨城の水戸へ、巡業中の水原弘を訪ねて行った。当時からずっと〝タム〟の略称で呼んだ田村氏は、水原が所属する東芝音工の宣伝マン。川内康範の肝入りで「君こそわが命」といういい作品が出来た。不祥事で干されてにっちもさっちもいかない水原を、これでカムバックさせようという目論み。「面白そうだ」と悪乗りはしたが、気になるのは当の水原の了見で、僕はそれを見届けた上で記事にするスポニチの記者である。
 宿舎でパンツ一枚の水原と世間話、客席がらがらのキャバレーで歌う姿を見たあと、
 「帰るよ」
 と楽屋に声をかけたら、
 「うん、東京へ戻ったら一杯やろう。悪いけど俺んちでいいだろ?」
 返事の声が本音っぽかった。
 《銀座の帝王が、自分んちへ呼ぶか、今度ばかりは相当に応えてるんだな》
 初対面の好印象を持ち帰る列車の中で、タムと編み出したのが「復帰へ、3千万円作戦」のキャッチフレーズだった。ポスター、チラシ、パンフレットの類いを作る。ラジオスポットを打つ。有線放送とタイアップ、全国をPR行脚する…。それやこれや考えられることを全部やって、諸経費総額が約3千万円。それを算出したタムと僕は、
 「借金まみれのスターの再起には、銭で後押しの話題づくりが似合いだね」
 と笑ったものだ。
 僕がまずスポニチのトップ記事にする。タムが週刊誌や月刊誌でフォロー、ラジオに飛び火させ、ころあいを見てテレビに集中出演…。そんな段取りを着々と進めていたころ、東芝音工の浅輪真太郎文芸部長から雷が落ちた。
 「3千万もかけるなら、こっちへその金を返せ」
 と、債権者が詰めかけたと言うから大笑いである。
 この成功に気をよくして、僕とタムは、佐川満男を「今は倖せかい」でカムバックさせる作戦もやった。それが縁でタムは、佐川が所属していた小沢音楽事務所へ移る。僕とのネタづくりを面白がり過ぎて、東芝音工に居にくくなったか…と、僕は大いに反省もした。当時小沢音楽事務所の小沢惇社長は、菅原洋一やロス・インディオスを軸に、ホテルでのエンタテインメント・ビジネスに進出、タムはその受け皿になるホテル側ビジネスを、一手に引き受けた。亡くなるまでタムが会長を務めたプランニング・インターナショナルは、その事業で大成した会社で、六本木に自社ビルまで持っている。
 タムとはそれやこれやで50年近いつき合いの、兄弟分みたいな関係。公私ともにあけっぴろげで、双方のプライベート問題にも首を突っ込み、男の貸し借りが積み重なる。飲めないタムと夜ごと大いに飲み、赤坂の花街育ちの彼の、小粋な生き方を賞でたりもした。茨城の田舎育ちの僕には、タムの都会っ子ぶりがまぶしかったが、秘かに取材活動の参考にもさせてもらった。そのタムは、C型肝炎による障害と闘い抜いて最近は、ごく慎重な身の処し方に専念していたのだが…。
 「君こそわが命」にまつわる人々だが、作詞川内康範、作曲猪俣公章、歌手水原弘はすでに亡く、プロデューサー名和治良が昨年逝き、生涯の友だった小沢音楽事務所の小沢惇を今年3月、タムこと田村廣治をこの夏相次いで見送ることになった。そのうえ僕は、親交のあった吉岡治を5月に、シャンソン歌手石井好子を7月に葬送している。テイチク南口重治元社長の訃報にも接した。8月6日、駒込・泰宗寺でタムの密葬、平成22年は天候まで異常の極みで、何という年であろうか!

週刊ミュージック・リポート