新歩道橋755回

2010年11月28日更新


 
 頬がふっくらと、血色も肌艶もいい。そんな顔が眠っているように穏やかで、二日目には微笑するように表情が変わった。自宅居間に仰臥する星野哲郎、とても亡くなったとは思えぬ面持ちで、
 「だけどなあ、良太郎…」
 と、いつもみたいに語りかけて来そうだった。15日午前11時47分、入院先の病院で心不全、85才。加齢による体調不良が長く続き、入退院を繰り返した。やがて人工的に栄養をとる状態になり、言葉少なに病床で思いをめぐらせた日々。彼はごく自然に仏の世界に近づいていったのか?
 形あるものはみな、滅ぶ日のためにある、色即是空、空即是色、ひとり、旅をゆく…
 15年前に彼が森サカエのために書いた「空(くう)」の、歌い納めの4行が、ドカンと胸に来る。あの諦観に似た静けさを、星野はいつから胸中の澱にしていたのか? 長く身辺に居た僕は、心の中の星野の年表を辿る。相思相愛で知られた朱実夫人が亡くなったのが16年前。今年その17回忌の法要を営んだばかりと聞いた。星野はあのころの喪失感を抱いたまま、こんなに穏やかな顔で朱実夫人の許へ旅立ったのか!
 星野と僕の初対面は昭和38年夏。以後47年もの知遇を得た。僕は「教わるよりは盗め」の新聞記者の常套手段で密着した。それを承知で胸襟を開き、盗ませ放題にしてくれたのが星野である。温厚な人柄、情と義に熱い生き方、絶えずみずみずしい詩心、一日一詞を実践した厳しさ、ついに捨てることのなかった海への渇仰…。その種々相を僕は、仕事先のスタジオ、交友の会合やネオン街の回遊などで目撃した。巷を書斎にした詩人の、人情の機微、歌が生まれる瞬間、ヒット曲が育つゆるやかな時間などを見守った。
 現実に戻る。残念だが葬送の手はずを整えなければならない。小金井の星野宅に続々と人が集まる。境弘邦をはじめ各社のプロデューサーたちの〝哲の会〟高田ひろお以下星野の門下生の〝桜澄舎〟の面々と、真澄氏を囲む打ち合わせ。葬儀社東都典範の醍醐武明と花のマル源の鈴木照義は中山大三郎、三木たかし、吉岡治らを一緒に見送った裏方の仲間だ。18日午後6時から通夜、19日正午から葬儀で場所は青山葬儀所、星野の有近家と日本作詩家協会、日本音楽著作権協会の合同葬で、葬儀委員長は星野の盟友船村徹。
 16日、その船村は九段会館に居た。午前10時から星野死去について記者会見。
 「彼が昭和の歌謡史を作り、星野哲郎の世界を作った。ここまでの詩人はもう出て来ないだろう」
 と唇を噛む船村。同席した鳥羽一郎は、
 「星野先生と船村おやじのコンビの作品は、僕が一番多くもらった」
 とこうべを下げた。
 この日のこの会場で船村は、靖国チャリティーの演歌巡礼コンサートを昼夜二回。彼が「おんなの宿」鳥羽が「兄弟船」森サカエがあの「空(くう)」と、星野作品を歌った。
 《星野から学んだことの骨子は三つ。①平易②簡潔③人間味か…》
 僕は九段会館から青山葬儀所で打ち合わせ、その足で星野邸へ戻りながら、そんなことを噛みしめる。「詩は話し言葉で、誰にでも判るように」「1行で済むことに2行も使うな」「不器用な者ほど努力するから、人間味が出る。僕もその一人だ」――おりにふれての星野の言葉が甦る。歌づくりの極意は耳が痛いくらいに新聞づくりに通じた。
 17日は新栄プロの元常務西川良次氏の通夜で桐ヶ谷斎場へ出かけ、西川幸男会長にあいさつをする。星野が物書きとしての師なら、西川会長はプロの気骨を見よう見真似で学ぶ機会をくれた人。そんな〝新栄育ち〟も、星野に連なっていてこその縁だった。
 星野葬送の打ち合わせは、大きな流れと形をつくり、細部を具体的にすることの組み合わせ。それに温顔星野と人の輪のフラッシュバックが重なるから、朦朧としてまだ、師を失った悲しみは地に足をつけていない。しかし、
 《あすの通夜、明後日の葬儀は、身をひ

週刊ミュージック・リポート