新歩道橋760回

2011年2月4日更新


 
 「セリフを繰(く)る」という言葉がある。人によっては「食う」と言ったりする。「順に引き出す」という意味では「繰る」が正解だろうが「クル」と「クウ」では、口伝てにすると混じりやすい。役者が出番前に、舞台そででボソボソ独り言めいているのがそれ。セリフが間違いなく言えるかどうか、不安を消し去りたい一心の、いわば復習である。
 「あれはやらない方がいいよ。小声でやって本番にいきなり声を張る。イメージがまるで違うから、かえって慌てる」
 きっぱり言うのは田井宏明である。
 「そうは言ってもお前なあ。むずかしい文句の長ゼリフとなると、やっぱりなあ…」
 少しテレた顔になるのは真砂皓太。1月の川中美幸名古屋御園座公演「たか女爛漫」で、真砂が水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門、田井が息子幸吉をやる。そのうえ、同じ楽屋で暮らしているから遠慮がない。
 「大丈夫だって。肚を決めてやれば、セリフはひとりでに必ず出てくる。そのためのケイコをやったんだもの」
 田井発言の二つめは、眼が僕の方へ向いている。
 「つまりさ、あとは度胸ってこと?」
 受けて立つ僕は、舞台そでの自分を見抜かれたようにタジタジとなる。確かに「セリフを繰る」こと毎度なのだ。それも短めのやつが2ブロック分だから、何度でも繰り返せる。しかし、何回もやったあとで舞台へ出ると、正直、気合いがイマイチになる気もする。過ぎたるは及ばざること、ゴルフの素振りに似ていようか?
 「先輩に聞いたんだけど、時代劇は〝結びめの芸術〟だって話があってさ」
 こちらは楽屋仲間の安藤一人の問わず語りである。てきぱきと衣装を着替えながら、その間に体に巻きつける紐や帯の結び方についての話。
 「ほほう…」
 と生返事をしながら、彼が捕り手になる経過を目算する。じゅぱんにひもが1、着物にひも1、帯1、上帯1、手っ甲の結びひもが左右で2、脚絆が左右2カ所ずつの4、わらじが2、たすきが1、はちまきが1で何と14個の結びめが出来た。
 「これが、鎧を着たりすると、40カ所以上になるかなあ」
 敵の発言は事もなげ。「ご用だ!ご用だ!」用の扮装など軽い軽いと言いたげに、手っ甲のひもを口と右手で器用に結んだりしている。
 どうやら紐は、その機能を超えて、どうきれいな結びめを作るかを問われるまでのものになっているらしい。手っ甲、脚絆、わらじなどの結びめは露出しているから眼につくが、着物の紐の多くは隠れた場所になる。それでもそこをおろそかにしない。眼に見えないところにも心を配り、姿形を整えておくのが、役者のたしなみであり、心意気、心栄えというものなのだろう。
 《深いよなあ、なかなかに…》
 役者兼業5年めのかけ出しの僕は、近ごろいろんなことに心を動かされる。その結果今回、具体的に覚えたのは、細紐のまん中に一つ、結びめを作っておくこと。そのたんこぶを臍下丹田にあてがえば、紐は左右長短がなくきっちりと結べる理屈だ。これは暗がりでの早替りに便利だそうだが、舞台裏のコロンブスの卵に、僕は、
 「へえ~!」
 である。
 一カ月の名古屋暮らしだった。突然の大雪も、思いもかけぬ美味、美酒も、大いに体験した。その間座長の川中美幸は、ほとんど出ずっぱりの芝居「たか女爛漫」とワンマンショーで奮闘、ヒロインの一途な生き方と、彼女自身の一所懸命を重ね合わせて見事だった。共演の松村雄基は知的な誠実さ、磯部勉は壮年の覇気、曽我廼家文童は飄然の人間味、近藤洋介はお人柄の慈味、長門裕之は存在感そのものの豊かさを示す。女性陣は土田早苗が達者な芸、冨田恵子が穏和で艶然、松山愛佳が愛らしい突進ぶりで華を競った。
 1月26日深夜、僕は久々に湘南葉山に戻った。猫の〝ふう〟が一瞬、見なれぬおっちゃんに尻ごみをした。

週刊ミュージック・リポート