新歩道橋770回

2011年4月29日更新


 

 近ごろはどこで誰に会っても、大震災の話になる。原発事故の放射能の恐怖は、際限もなく続き、国中に憂色が濃い。歌手の花京院しのぶは父方のおじ一家5人を失った。福島原発へ車で15分ほどの鹿島鳥崎浜、避難指示が出ている地域で、遺体も収容できないままだと言う。作曲家榊薫人の兄姉妹5人は、宮城の登米市で被災、途絶えていた連絡がやっとつき、胸をなでおろしたところ――。
 この2人が〝望郷シリーズ〟CD3枚めの「望郷あいや節」と「望郷さんさ時雨」のレコーディングに入った。ともに宮城県出身、それぞれ胸中は複雑だが、恵まれた仕事は仕事、それも故郷を舞台にした歌づくりとなれば、一途に集中せざるを得ない。作詞は喜多條忠、曲は榊自身だが、花京院と組むのは3度め。少し大仰に言えばこの仕事に、2人の命運がかかっている。
 歌社会の大先輩に島津晃さんと言う人が居る。昔々、岡晴夫の前唄からマネジャーになり、キング芸能(当時)に籍を置いたころは、大月みやこのデビューを手がけた。この人が〝女三橋美智也〟を目標に、手塩にかけて来たのが花京院。資金も看板もない2人組に、「まず地盤だけでも作ろう」と僕が提案したのがまだ昭和の頃。以後仙台を中心に草の根活動をやった島津のとっつぁんに、
 「俺も年だよ、そろそろ形にしてくれないか」
 とせかされて、03年10月に「望郷新相馬」と「お父(ど)う」を作った。
 8年前のそのころヒットしていたのが、成世昌平の「はぐれコキリコ」。もず唱平の詞、聖川湧の曲で、民謡調の難曲である。これにカラオケ上級者が飛びついたのを見て、花京院の狙いを〝コキリコの次〟に絞る。彼らには相変わらず看板も資金もないうえに、本人はもう若くもなかった。作曲は榊の挑戦になる。宮城から集団就職列車で上京、工員になったが夢を捨て切れず、新宿の阿部徳二郎門下の流しになり、その後弾き語りから作曲に転じた。長いこと作品を聞かされたがピンと来ない。もはやこれまで…と思っていたのが、三橋美智也の信奉者だったのを思い出して、
 「メロ先で3、40曲も書いてみろよ」
 と乱暴な指示をした。「望郷新相馬」と「お父う」はその中の2曲で、詞は里村龍一がはめ込む。録音が済んだ夜、島津のとっつぁんと花京院、榊は泣いた。
 それから5年後の08年8月「望郷やま唄」を作ったのは、カラオケ上級者ご用達の狙いに、一応当たりが来てのこと。榊のストック曲を手直しして、紺野あずさが詞を書いた。星野哲郎門下のふっくら女史、これも無名の挑戦で、花京院の津軽三味線の立ち弾きもかっこうがついた。幸いこの作品もカラオケ大会の常連曲になり、花京院の持ち歌3曲は、地味ながらカラオケ・スタンダードの一角を占めるにいたった。
 「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ…だよな」
 歌手本人より楽曲を優先する作戦を、僕は彼女らにそう強弁する。
 「貧乏人は、体を張って頑張るっきゃないしさ」
 かなり孤独な草の根行脚をする花京院の尻を、僕はそう言って叩いた。そして今回が、花京院、榊の3度めの挑戦――。
 「とっつぁんをもう一度、喜ばせてやりたいよな」
 ビクターの鈴木孝明部長、菱田信プロデューサーと僕は肯き合う。島津晃氏は80才を超えてこのところ病床にある。新曲の仕上がりを聞かせ、花京院の踏ん張り方をテレビで見せるのが一番の良薬だろう。喜多條はオケ録りのスタジオへ来て、彼女の仮り歌を聞きながら、歌詞の手直しをした。東北地方のあいや節、宮城の祝い歌さんさ時雨をモチーフにした2曲、震災の被災者の心境をおもんばかれば、不用意な表現は心して避けなければならない。
 冒頭に書いたように、榊も花京院も実は、精神的な被災者である。そんな二人が夏には世に出る「望郷あいや節」と「望郷さんさ時雨」に「頑張れ東北!頑張れ宮城!」と復興、再生への祈りをこめる。それに和しながら喜多條、鈴木、菱田、僕の4人組は「頑張れ二人、頑張れ島津晃さん!」の願いで胸を熱くしている。

週刊ミュージック・リポート