新歩道橋771回

2011年5月13日更新


 
 「レコーディングの翌日に、胡蝶蘭が届いた。それが去年も咲いて、今年も咲いた。花を見る度にじんじん来るのよね」
 喜多條忠が感慨深げな顔になる。花の送り主は三木たかし、レコーディングした曲は彼の最晩年の傑作「凍て鶴」で、歌ったのは五木ひろし。3年前の2008年のことだ。三木もいい仕事が出来たと、心底嬉しかったのだろう。その思いが作詞した喜多條への花に託されたのか。
 4月26日午後3時から帝国ホテルで「三回忌・三木たかしを偲ぶ会」が開かれた。500人を超す人たちが集まって盛会だった。僕は会の司会をやった。新進作曲家と取材記者で始まった交友が、やがてあけっぴろげの飲み友だちになり、公私ごちゃまぜの相談を受け、ついには三木と恵理子夫人の媒酌を務めるところまで深入りしたいきがかりがある。そんなあれこれをネタに振りながら、三木追悼を実感的な雰囲気にするのが僕の役割だった。
 呼びかけ人代表は船村徹。何しろ歌手志願で弟子入りした三木に、
 「君は作曲の方が向いているかも知れない」
 と、引導を渡したのが13才の時。以後64才で亡くなるまで、船村は三木の終生の師だった。
 「見た目も歌手にはどうかと思ってねえ」
 と、苦笑まじりの船村のあいさつで、会の空気は一気にほぐれる。
 作曲家仲間の都倉俊一や川口真が、ゴルフ場での三木を語る。プレー中に片足がつってもやめない。そのうち残る片方がつりはじめても、プレーを続行したがる。三木はそのくらい頑固で、思い込んだらまっしぐらの血の熱いやつで、他者には心優しい男だった…と述懐が続いた。
 純真無垢、直情径行、多情多恨などが矛盾なく同居した天才肌の歌書きだった。その辺のエピソードを!と注文したら、荒木とよひさがやたらに口ごもった。無二の親友でケンカ友だちだったから、艶っぽさも含めて一緒にやった愚行蛮行ネタには事欠かないのだが、時と場所とを考えたのだろう。コンビのヒット曲の多くが曲先、それに詞をはめ込む作業は、
 「誰かに捧げる思いが五線紙に書き込まれていた。それを僕は、恋文の代書屋みたいに形にした」
 と言うあたりに微にして妙な含みがあり、その後荒木は「たかしちゃん、逢いたいなあ」と遺影に呼びかけて泣いた。
 冒頭に書いた「凍て鶴」は、08年の9月に詞・曲が上がり、10月にレコーディング、11月CD発売で、12月の紅白歌合戦で五木が歌うという、異例づくめの仕事になった。五木はあいさつでその辺に触れて、
 「平成の古賀メロディーか!と思った。凄い曲だから紅白で歌うのを見て貰おうと思った」
 と話した。レコーディングのスタジオで彼がそう言いだした時に、僕は一も二もなく賛成している。その時僕の胸中には「おそらく翌年の紅白までは、三木はもつまい」という予感が、振り払えない重さでしこっていたせいで、つらいことだがそれは当たった。
 三木が亡くなった一昨年5月、名古屋御園座に出演中だった川中美幸は「遣らずの雨」「女泣き砂日本海」「豊後水道」と、三木作品を並べたショーで、何日も泣いた。今年3月11日、明治座公演中の彼女は「遣らずの雨」の2コーラスめで、あの激震に遭遇した。もともとことさらに深い思いがあって歌い続けてきた曲である。
 「レコーディングの時よりは私、少しは上達したところを先生に聞いてほしかった」
 と、遺影の前のあいさつが、また涙声になった。 「去るものは日々にうとし」と言われる。世間なみの情の姿だろうが、だから「忘れないから、思い出すこともない」という情の深さは、とても得難いものに思える。歌書きっていいな…とつくづく思うのは、彼が遺していったヒット曲が歌われ続け、それにいつも触れている僕らは、彼を忘れることなどなくなるせいだ。三木の会のあと、荒木や喜多條と一杯やりながら、僕は全然「居なくならない三木たかし」をずっと感じ続けていた。

週刊ミュージック・リポート