新歩道橋774回

2011年6月10日更新


  
 「会えるか会えぬかは御仏の思し召し次第、会わねばならぬ者同士なら、御仏が会わせて下さる…」
 人と人の縁について、大本山南禅寺の住持、渓流禅師のせりふである。演じたのは長門裕之、今年1月、名古屋御園座でやった川中美幸公演「たか女爛漫・井伊直弼を愛した女」の幕切れ。これが長門の最後の舞台になった。
 公演中に、共演者をグループ分け、食事に招くことを彼は恒例の行事とした。若手男優陣には焼肉、女優陣には天ぷら、僕らは〝老人会〟と呼ばれてしゃぶしゃぶ…。名古屋では近藤洋介、曾我廼家文童、磯部勉、富田恵子、土田早苗、真砂皓太らがご相伴にあずかったメンバーだ。
 「心臓を体から取り出してね、水でじゃぶじゃぶ洗って、また戻すようなことでね…」
 と、長門は直前に受けた大手術を話す。肉食系の健啖家として知られたが、この夜はさすがに小食に見えた。
 「ギャラを幾ら貰ってもまるで足りないよ、きっと…」
 若手がひそひそ話をするくらいに、連夜の飲み会主宰である。日本映画の良き時代からの〝スターの振舞い〟に、生来の淋しがりやが上乗せになった宴だったろうか?
 「ご免ねえ、あんたの役をとっちまった…」
 舞台裏の立ち話で、そう言われたことが耳に残る。大病のあと、是非また舞台に…と、川中側に申し入れての渓流禅師役だったと聞く。芝居のすべてを総括する重い出番に、独特の風格、登場と同時に相手が湧く存在感…。僕なんかに金輪際、回って来ない役なのに、彼は何を聞き違いしたのか、勘違いしたのか…。
 「いえいえ、滅相もない…」
 旅籠の亭主役の僕は、不得要領の返事しかできなかった。
 長門享年77才の葬儀が、麻布・善福寺で営まれた5月24日、作詞家藤間哲郎の訃報を受け取る。三橋美智也の「おんな船頭唄」「噂のこして」や春日八郎の「別れの波止場」「トチチリ流し」などのヒットで、昭和30年代に圧倒的だった「三橋・春日時代」の端緒を作った人。今年1月28日に米寿の会が開かれて、久しぶりに懐かしい顔が揃った。親分肌に人が集まって群雄割拠!? 一時は市川昭介が寄宿したし、弟子の大沢浄二は弦哲也を育てたから、弦が藤間の孫弟子にあたるエピソードも出て来た。
 慢性閉塞性肺疾患で19日に亡くなり、葬儀は近親者で済ませたと言う。生涯酒とタバコを手放さなかった人。僕は米寿の会の乾杯の音頭で、
 「ここまで来たら両方とも、とことんやりましょう」
 と乱暴なことを言い、彼の「噂のこして」を一番から三番までを諳んじてみせた。時おり本人にも話したが、藤間作品で一番好きな歌詞なのだ。
 《あのころの、キングの灯りがまたひとつ消えたか…》
 ふっとそんな感慨が来たところへ、今度は島津晃さんの訃報である。昔、キング芸能に居て、大月みやこのデビューを手がけた。そのまた昔は、岡晴夫の前座歌手で後にマネジャーに転じた。僕にとっては戦後のこの世界の生き字引き、硬軟ないまぜて、実にいろんなことを教えて貰った。
 ここ20数年は、花京院しのぶに〝女三橋美智也〟の夢を見、マネジャーをやっていた。僕は恩返しのつもりで「望郷新相馬」「お父う」「望郷やま唄」をプロデュース、カラオケ上級者用スタンダード曲にした。島津さんは体調を崩してここ1年ほどは病床にあった。
 「よし、とっつぁんを元気づけよう!」
 と、詞喜多條忠、曲榊薫人で「望郷あいや節」「望郷さんさ時雨」を吹き込んだばかり。5月25日午前二時三十分心不全で死去、84才だったが、その花京院の新曲を何とか間に合わせたのが、せめての心尽くしになったか?
 人と人を引き合わせるのが御仏…という冒頭の長門のせりふ、その御仏を〝芸能の神様〟と僕は置き換える。そんな思いで5月、御園座の「恋文・星野哲郎物語」のけいこを続けながら、ご縁のあった人々を見送った。その都度、
 《さて、こちらはもうひと仕事か!》
 僕はマジで、自分のお尻を叩くのである。

週刊ミュージック・リポート