新歩道橋783回

2011年8月26日更新


 
 お盆は北海道・鹿部に居た。星野哲郎が毎夏、20数年通ったおなじみの漁師町。「函館から川汲峠を越えて、噴火湾沿いに北上する。車で小一時間、駒ケ岳を仰ぐ人口5千の港町…」と、もう何10回も書いたから、僕はソラでスラスラ…だ。同行したのは作曲家岡千秋、作詞家里村龍一にオオキ(元コロムビア)、サッチャン(星野の事務勤務)、オシゲ(作詩家協会勤務)…と、いつもの星野ゆかりのメンバー。地元では星野を偲ぶ会と追悼コンペにカラオケ大会が用意されていた。没後1年、これも星野の人徳だろう。
僕らは8月13日午後、渡島リハビリテーションセンターの庭で、白みかげ石で作ったモニュメント「仲間」とご対面をした。高さ1メートル80の樹の枝に11羽のふくろうがとまっている。ユーモラスでほのぼのとした雰囲気で、ふくろうは幸せを呼ぶ鳥なのだそうな。
「あたりを見回しているでかい奴が、星野先生か」
「上の方で羽根をひろげて悦に入っているのは、さしずめたらこの親父だ」
「そうすると、色ちがいの3羽は、酔っぱらってる俺たちってことかい?」
関係者に囲まれて、口々ののん気な冗談は、岡、里村と僕。何を隠そうこのモニュメントは、僕ら3人が割勘で寄贈したものなのだ。
1987年から2006年まで、星野は鹿部を訪ねるたびにこの施設に立ち寄った。入居しているお年寄りや障害を持つ人々を慰問、寄付金を届けるのが常。そんな町の人々との親交と、星野の思いを引き継ごうとしたのが僕らである。07年以降も、加齢による健康不安で出かけられなくなった星野の名代として、毎年招かれていた。施設の庭には星野が寄贈した石の灯篭もある。
「よし、それなら俺たちも一役!」
と、悪童3人の一念発起がふくろう11羽になった。設置されたのは昨年11月15日に星野が亡くなる直前の11月10日。
元気だったころ星野は、夜明け前に出船して定置網を引き、番屋の朝食で大漁の魚をくらい、昼前からはゴルフコンペ、夜は漁師たちとの酒…と、この町で海づくしの日々を過ごした。船乗りから作詞家に転じた彼の〝海の詩人〟第一人者としての、いわば海のおさらい。その中から幾つものヒット曲が生まれ、鳥羽一郎が歌った「北斗船」の歌碑もこの町に建っている。
しかし、名代の僕らの鹿部の旅は、もう少し軟弱な趣き。とれとれの海の幸のご馳走は同じだが、気分浮々のグルメツアーふう。毛がににかぶりつき、むらさきウニとばふんウニを食い比べ、マンボウの肝あえがうまいの、なまこがうまいの…と口走って、合い間に焼酎をグビリ、グビリ。飾られた星野の遺影や思い出の写真、記事などを一巡したあとは、翌日のゴルフの相談である。何しろ2泊3日で3ラウンドはやる貪欲さ。
「それでいいんだ。めいっぱい楽しんで貰えりゃ…」
僕らがたらこの親父の異名を捧げる道場水産道場登社長は、自称星野哲郎の北海道後援会の会長。一行のツアーの勧進元だが、そのおおらかさと酔いっぷりは、星野に対しても不肖の弟子の僕らにも、何ら変わるところがない。
「そうそう、ここで得たものはいずれ、こやしになって俺たちの歌に出てくるからさ、なあとっつぁん…」
甘え放題の歌書き2人と僕らは、今年は星野の遺徳のおこぼれを満喫したことになる。
「それにしても…」
と、話は11羽のふくろうのモニュメントに戻って、僕ら3人は酔余、肩をすくめた。何しろ、
「福祉に役立てて頂きたい」
などと、殊勝な言動に及んだのは生まれて初めての経験。やんちゃに暮らした若いころから更生した3人組みたいで、面映ゆいことこの上ない。
「ま、こういうこともあるという話さ」
「うん、それはそれ、これはこれか…」
顔を見合わせての感想も、何だか要領を得ない。
帰京して翌々日の16日、僕は札幌へ初音ミクというバーチャルアイドルのコンサートを見に出かけた。18、19日の両日は栃木で開いた小西会で2ラウンドのゴルフをやった。 

783.jpg

週刊ミュージック・リポート