新歩道橋826回

2012年11月18日更新


  
 彼女は小声で歌う。自然に僕は聞き耳を立てる。
 《どういうことなんだ?これは…》
 いぶかる気持ちも抱えながら、僕は次第に彼女の世界に引き込まれていく。「人の気も知らないで」「待ちましょう」「恋心」…と3曲ほど聴いて、前のめりになっている自分に気づく。ひとり言みたいな歌、呟きのステージ。
 《これがこの人の芸なのだ!》
 と、突然僕は合点した。11月4日夕、有楽町朝日ホールで開かれた、大阪在住のシャンソン歌手出口美保の「リサイタル2012」――。
 だいぶ前に一度、一曲だけこの人の歌を聞いた。石井好子が主宰したパリ祭でのこと。それをカラオケ雑誌に書いた。見聞した歌社会の出来事の長いレポートの中に、わずか3行か4行。「読んだ。嬉しかった」と本人から手紙が来た。それ以来何回か、年に一度の東京公演に誘われたが、スケジュールが合わずに欠席。今回やっと、首をすくめながら不義理の穴埋めをすることになる。
 その時書いたのは、低音の魅力について。ザックリした手触りの歌声から聞こえたのは、この人なりのキャリア、ひととなり。若いシャンソン歌手たち(といってもこの世界、40か50がらみだろうが)は、晴れ晴れと無傷な歌声張り上げて、マニュアルどおりの歌唱が常。それにうんざりした僕に、出口の歌声は独特の説得力と存在感で際立って聞こえた。
 出口の今回のリサイタルには「菅美沙織先生没後13年忌念」のタイトルがついていた。大阪に初めてシャンソン教室を開いた彼女と、当時北浜のOLだった出口の出会いは50年前という。井戸を掘った人を忘れないエピソードを語りながら、一部で9曲。おしゃべりがそのまま歌になっていく語り口で、ほどよくにじむのは人生の苦渋と詠嘆だが、決して暗くはならない。ずっとひとり言調かと思ったら「サンジャンの私の恋人」など、張り歌はしっかりと、芯のある歌声を放った。
 見回せば、知った顔がまるでいない客席を、僕は二部で前から4列めに移る。何しろNHKホールで一度だけ見た相手である。どんな表情とたたずまいで歌うのか、見届けたさが募った。照明で金髪にも銀髪にも見える髪。すっぽり全身を覆うガウンみたいな黒のドレス。おだやかな白い顔が、しばしば目線を足許に落とし、時おり遠くへ投げて「街角」「枯葉」「旅芸人のバラッド」…。
 《ひとり芝居に似たところもあるな…》
 淡々と、彼女流のマイペース。客席へ、おためごかしのアプローチはない。歌うことそれ自体を、ファンとの接点にする潔さ。一曲歌い終わると、没我の境地からふと我に還ったような、はにかむ笑顔になる。童女みたいなそれは、女優の顔ではないか!
 信奉した菅の歌声をステージに再現したのは「さくらんぼの実るころ」と「花嫁御寮」の和洋2曲。「シャンソンも日本語で歌うのよ」というのが、師の教えだったという。石井好子は常々「原語で歌うべきだ」と主張した。石井にはフランスの文化を日本に伝える使命感があり、菅はシャンソンも日本の歌と捉える視点の持ち主だったのだろう。出口にはその教えを金科玉条とする気配があり、だからこそ編み出し、熟成させた自分流を持つのかも知れない。
 アンコールで出口は「希望」を歌った。岸洋子がヒットさせた流行歌である。いずみたくのこの作品をレコーディングした時、岸が心細さに泣いたのにつき合った記憶がある。「銀座のグレコ」の異名を取った彼女は、流行歌の世界へ出ていくことで、それまでのファンを裏切りはせぬかと案じたのだ。そんなことも今は昔で、大阪西天満にシャンソニエを持つ出口には、特段のこだわりなどなさそうだ。
 派手な仕掛けで声を励まし、ファンを圧倒する歌手がいてもいい。時にひどく個人的に、歌を手渡す芸も人間味勝負で、好ましいものだと、僕はこの夜痛感した。
 出口は一部で「ラノビア」を歌ったが、これは先輩記者岡野弁氏のおはこだった。その訃報に接したばかりの僕は、ホールからの帰路、少し感傷的になった。

週刊ミュージック・リポート