新歩道橋843回

2013年5月25日更新


 
 「近ごろ、こういう場所ばかりで会うな」
 「うん、辛いものがある・・・」
 そんなやりとりをまたやった。黒のスーツがほとんどの人の輪に、駆け込んだ僕は仕事の合い間の平服なのも切ない。
 「皆さんお揃いですから・・・」
 と、役者仲間の田井宏明に案内された部屋には、北島三郎、山田太郎、クラウンの北島一伸社長、鈴木企画の鈴木晶順会長、それに星野哲郎の長男有近真澄の顔もあった。
 5月14日夕の石神井台・宝亀閣斎場。しめやかに営まれていたのは、作曲家島津伸男の通夜である。会場にはずっと、彼のヒット曲「函館の女」が流れている。献花をして千枝子夫人にあいさつしたが、気持ちがうまく言葉にならない。患っているとは聞いていたが、見舞いにも行かずじまいだった後ろめたさが、どうしても先に立つ。いつもニイッと、歯を見せて笑った島津の顔が目の前でちらつく。
 「同い年だもんなあ」
 北島がぼそっと言った。
昭和11年生まれの77才、10月の誕生日が来れば北島と僕は、逝っちまった島津と同じ年齢になる。
 島津は鹿児島出身。高校時代から春日八郎に憧れた歌手志望だったと言う。村田英雄が巡業で来た時、公演後ののど自慢に出て、新栄プロの西川幸男社長(当時)から声をかけられたのが、この道へのきっかけ。ギター弾きをしながら船村徹に師事、北島と知り合う。歌手としては芽が出ず、作曲に転じて山田の「新聞少年」や「函館の女」など北島の〝女シリーズ〟ほかを書いた。活動の拠点はクラウンで、長く北島公演のオーケストラの指揮でおなじみだった。
 《俺、ずっと彼の身近にいたことになる──》
 僕が改めてそう思うのは、スポーツニッポン新聞社の音楽担当記者のホヤホヤから、通い詰めた先が昭和38年創立の日本クラウン。そこで新栄の西川社長や星野哲郎の知遇を得、船村徹と出会ったのもちょうどそのころで、北島も山田も、その時分からの親交が続いている。だからだろう、ずいぶんいろんな場面で島津に会った。突っ込んだ話こそしなかったが、いつのころからか気心の知れた仲間気分のつき合いだった。
 「あんたこのごろ、まるで業界のおくり人やね」 喪服の友人が悪い冗談を言う。そう言われりゃこのコラム、先週は田端義夫の死に触れたばかり。手帳を見れば5月には三木たかし、吉岡治、7月には石井好子、8月には阿久悠、元東芝の田村広治の命日の書き込みがある。みんな胸襟を開いて付き合った大事な人ばかりだ。小澤音楽事務所の小澤惇やおじ貴分の名和治良は春3月だったし、秋には星野哲郎の命日が来る・・・。
 僕には近ごろ、
 《彼だったらこんな場合、どうしたろう?》
 と、亡くなった人の顔を思い浮かべる習慣が出来た。歌づくりや歌手活動などの相談を受け、思い惑ったりする時だが、ケースバイケース、もし名和ちゃんだったらとか、星野や吉岡、阿久だったらとか、たかしだったら・・・という具合に、答えを探すのだ。親しい人を見送る都度、僕は相手の心残りをおもんばかる。出来ることなら以後、事あるごとにそれを生かして行こう。そうするのが残った側の務めだし、供養にもなろうか・・・と思って来たせいだ。
 島津の通夜、葬儀の中心になったのは、クラウン、新栄プロ、北島一門の人々で、これは本人も本望だったろう。通夜を辞した僕は、北島音楽事務所大野龍社長が手配してくれたタクシーで、元クラウン牛尾真造氏とJR荻窪駅へ出た。ホームへの階段を上がり、うまい具合に中央線の快速に飛び乗る。まだ宵の口のせいか、女子大生ふう若者で混み合っていた。その中の一人がすっと席を立つ。
 《ン?》
 虚を衝かれた気分の僕の目を、ひたと見据えた彼女は、
 《どうぞ!》
 の目顔でふっと笑みを浮かべた。な、何と、僕は席を譲られたのである。恐らく肩を落としていたろう僕は、島津と同じ77才の現実を甘受する。以後東京駅で横須賀線に乗り換えるまで、うずくまった僕の頭の中では、ずっと「函館の女」が鳴っていた。

週刊ミュージック・リポート