新歩道橋850回

2013年8月12日更新


 
 机の上に電話帳みたいに分厚い本が一冊ある。「完全版甲子園の詩・敗れざる君たちへ」で幻戯書房から出版された。1979年から2006年までの28年間、スポーツニッポン新聞に毎夏連載した高校球児たちへの詩、363編が収められている。甲子園の15日間、全試合の一投一打を見据えて阿久悠が書いた、極上のエッセイ詩である。それが彼の七回忌のこの夏、ついに一冊にまとめられた──。
 阿久の記念館は彼の母校・明治大学のアカデミーコモン(駿河台)にある。そこで7月20日「甲子園の詩」をテーマにしたトークショーが開かれた。来場者3万人と、この本の出版を記念した催しで、宇部商の元投手藤田修平さんと審判員の林清一さんが15年ぶりに再会した。二人は98年、対豊田大谷戦で延長15回、ボークでサヨナラ負けした投手と、それを宣告した球審である。
 その試合を阿久は「敗戦投手への手紙」という詩にした。快晴の真夏日、5万を超える観衆に見守られて15イニング、210球を一人で投げ抜いた藤田さんの、次の球の動作がボーク、豊田大谷に決勝の3点目が入った。2年生だったこの敗戦投手を讃えた詩を、阿久は「藤田修平君、来年また逢いましょう」と結んでいる。
 その藤田さんは、15年めの今もほっそり見える好青年、山口県からこの日のために上京した心境を、
 「林さんに、元気でやっていますと言いたかった」
 と話した。林さんは「感無量です」と、その後の屈託に触れ、試合後にボールを渡しに来た藤田さんに、
 「そのまま持って行きなさい」
 と押し返した秘話を語った。試合終了の球は、勝利チームに渡すのが常なのだそうな。
 決定的なシーンの映像が写し出され、阿久の書いた詩が朗読される。僕の隣りの席に居た阿久夫人の雄子さんは、
 「そうだったんだ」「そうなんだ・・・」
 と何度も呟き、感動のご対面が終わると、
 「阿久にも見せてあげたかったね」
 と僕に同意を求めた。僕は涙がこぼれそうで、その視線を受け止め損なった。
 阿久は球児たちを「甲子園という聖地を目指した巡礼者」と捉え、少年たちの闘う姿に「正しさ」「美しさ」「清らかさ」「厳しさ」「潔さ」を見、そういう美点を限りなく「貴いもの」とした。363編、28年分の労作は、少年たちの純真と詩人の真情とが出会った証だったろうか。この大河連載は、スポニチという媒体への好意と、彼と僕の親交の中から生まれた。夏の夕刻、日々FAXで送られて来る彼の詩の第一読者として、一体僕は何十回心を揺すぶられたことだろう。
 《さて・・・》
 と僕は、手許の「完全版」を改めて手にする。どのページをめくっても、夏まっ盛り。少年たちは躍動し甲子園の興奮は、阿久の独特の筆致で詩情豊かに記録されている。
 《ああ、あの年のことだ・・・》
 と、思い返す個人的な感慨や、その時々の出来事は山ほどある。御前崎の別荘に、小学生だったころの一人息子太郎君とこもり、この連載の執筆をするのが
 「父子の連帯を深める好機になっているみたい」 と、苦笑した阿久の顔が目に浮かぶ。その息子深田太郎君ももはや壮年。家庭も子供も持って、この本への協力をはじめ、阿久の遺した大きな業績を維持し、発展させる仕事に打ち込んでいる。 七回忌のこの夏、阿久の墓は伊豆から西麻布の長谷寺に移され、親しい人々で法要が営まれた。六本木通りを渋谷へ向かい、フジフィルムのビルの先を右折した突き当たりである。彼には長く仕事場とした六本木界わいが似合いだし、
 《第一、ここならちょくちょく来られる。彼も寂しくないだろう》
 と、僕らはうなずき合ったものだ。
 八月一日、間もなく六回目の彼の命日が来る。
 《それにしても・・・》
 と僕は、出揃う高校野球の代表校と、各地で大きな被害を生む豪雨とを思い合わせる。異常で不穏な今年の夏、夏男の阿久は一体どう捉えるのだろう?

週刊ミュージック・リポート