新歩道橋855回

2013年10月1日更新



 眼下の海はまっ白に泡立ち、波しぶきの荒れ方がまるで、東映映画のタイトルバック状態。
 「だめだ、こりゃ・・・」
 と僕は観念しかかった。9月16日午前の、湘南葉山の自宅。この日の朝、愛知県豊橋市付近に上陸、関東甲信を通り東北に進んだ大型台風18号の余波だ。テレビでは渡月橋が濁流に洗われて「京都が沈んだ」(17日付スポニチの大見出し)なんて被害のあれこれが続々と報じられている。
 JR東海道線が止まり、東京では靖国神社の16メートルもある老木が倒れ、ケガ人が出たと言う。横須賀線もそのうち止まるだろう。とてもじゃないが、芝居用の衣装合わせになど、出掛ける天候ではない。それでも一応・・・と、確認の電話を入れてみたら、
 「順調に進行してますよ。一段落したんで、昼めしを喰いに行くところです」
 舞台監督那須いたるの応待が、屈託なげに明るい。風も雨もやんで、何事もない気配がありありだから、
 「やばい。葉山と調布じゃ、そんなに天気が違うのか!」
 僕はおっとり刀で家を飛び出した。僕の衣装試着の順番は現地15時からー。
 「これじゃ少し派手かしらねぇ。昭和四十年ごろの話でしょ。ワンピースに、こんな飾りはないわよね。じゃ、こっちを着てみる?」
 迷い子になった老婆に扮する鈴木雅が、まるで着せ替え人形になっている。東宝現代劇75人の会公演「芝翫河岸の旦那・十号館二〇一号室始末」の準備。深川江戸資料館小劇場で26日から4日間の本番と、期日が迫っているから、台風そこどけ! の気ぜわしなさだ。
 深川の古アパート2DKの一室に、突然同居することになったいわくありげな男女5人。食堂の賄婦で芝居の全編を仕切る形の竹内幸子と、その同僚で子持ちの梅原妙美は、それぞれ衣装が決まってヤレヤレ・・・。下町で暮らす人々の、悲喜こもごもを描く人情劇だから、女優さんたちの衣装は美しさよりも生活感が主。作、演出の横澤祐一が、登場人物全員のいでたちに眼を光らせている。
 現場は京王線調布駅から徒歩7、8分の東宝舞台衣裳部。入り口に「指定可燃物貯蔵取扱所」のプレートがあり、収められている布類が4300キロと表示されている。舞台衣装の山をキロで表すのも凄いが、長谷川一夫、山田五十鈴、森繁久弥、森光子らを中心に、長い歴史を誇る東宝演劇の衣装のすべてが、その中身なのだろう。時代劇から現代劇、西洋のミュージカルまで、登場する老若男女が着たものは何でも、ここには蓄積されている。万引常習者で保護観察下のアヤシイ中年男・夏目磯八の僕の5ポーズ分など、ひょいひょいと出て来て、係りの人の手際もいい。
 さて、その夏目磯八だが、盗癖が仇で職を失い、家庭も崩壊する。その元妻役の村田美佐子は10日から16日まで、別の芝居「殺しのリハーサル」(中目黒キンケロ・シアター)に出演していたから、僕との再会シーンのけいこはおあずけ。もう一人僕とメルヘンチックにからむ子役の上村沙耶も学校が忙しくてけいこを休みがち。そのおかげで僕は、それぞれの代役下山田ひろの、田嶋佳子、松村朋子なんて女優さんたちとの、やりとり浮き浮きがおまけになった。
 威勢のいい八百屋のおかみ古川けいとは、帰路の車中横浜あたりまで演劇よもやまばなし。ヒステリックな憎まれ役の菅野園子からはサプリメントふう飲み物を時々もらい、会長秘書役の髙橋志麻子とは、けいこ場のすみでゴルフ談義。75才を大分過ぎてから獲得した、少々はなやぎ気味の日々だ。
 「けっこうではないですか、ははは・・・」
 と、巌弘志のお人柄ジョーク。煙草厳禁のけいこ場から小道2筋ほど先の谷端川緑道へ出掛ける喫煙組柳谷慶寿、松川清とのひそひそ話などが加わるのが、僕の日々是好日の種々相──。
 台風一過、お定まり晴天の17日は、葉山拙宅眼下の海はベタなぎ。真向いにくっきりと、青い富士山が姿を現した。春、夏は靄に隠れ、秋とともに戻って来る景観だが、ベランダからそれに向かって、同居する猫の風(ふう)が、大あくびをした。

週刊ミュージック・リポート