新歩道橋868回

2014年2月24日更新


 
 「あらっ?」
 楽屋入り口で振り向いた川中美幸は、満面の笑みでスター歌手の顔になっていた。ということは─、
 「どうも、どうも...」
 と、小腰かがめた僕は、老いた音楽評判屋の顔になっていたろうか?
 「統領、今日、あっちの方は?」
 居合わせた業界人が、判っているくせに、軽口を叩く。明治座2月の「松平健・川中美幸特別公演」は、13日のこの日が休演日で、僕らはテイチクエンタテインメント創立80周年記念コンサート「テイチクアワー~百歌繚乱」二日目の、中野サンプラザホールに居た。
 午後5時の開演だが、40分近く早めに客席に着くと、場内にはこの会社のお宝のヒット曲が、ひきも切らずに流れていた。例えば田端義夫の「かえり船」だが、国敗れて山河ありの昭和21年、外地から引き揚げた兵士たちがみな、これを聞いて泣いた。そんな時代色を悲壮感とともに覚えていた僕は、軽めのひょうひょうとした味に少し驚いたりする。僕を戦後の歌謡少年にタイムスリップさせるのは、ほかに「君忘れじのブルース」「星の流れに」「カスバの女」それに「ふるさとの燈台」...。
 テイチク所属の演歌、歌謡曲勢総出のイベント、それぞれのヒット曲と往年のヒット曲がずらりと並ぶ。聞く側はどうしても、各人の青春時代と流行歌のかかわり合いに、感慨を深くする形になる。「かえり船」は茨城の田舎で、そのころはやりの素人のど自慢大会によく出て来た。復員したばかりのインパール作戦の生き残りが、自棄みたいな怒号で歌っていたものだ。
 この夜のトリで菅原都々子が、とても80代とは思えぬ彼女節で歌ったのが「月がとっても青いから」で、昭和30年、僕は急性脊髄炎を発病、担ぎ込まれた国立霞ヶ浦病院で覚えた。高校3年の卒業直前、付属看護学校にいた一才年上の看護師研修生に一目惚れ、プラトニックラブ(もはや死語か!)の見本みたいな恋をしての胸キュン・ソング第1号である。
 三波春夫の「チャンチキおけさ」には、屋台のおでんの匂いがついて回る。何はともあれ東京で...と、スポーツニッポン新聞社のボーヤの職にありつき、先輩記者に愚痴と一緒におごってもらった酒のつまみだ。「東京五輪音頭」は、オリンピック前年の昭和38年、紙面充実人事の片すみで、スポニチの取材記者に取り立てられた思い出がまつわる。僕の流行歌評判屋のキャリアは、ここから始まった。「ふるさと燈台」はそんな駆け出し時代、国際劇場で田端をナマで聞き、傑作だ! とばかり興奮して、サインをねだったら、
 「お前さん、本当に記者なのか?」
 と、田端を不審顔にした記憶がある。それが後年、亡くなった彼を送る会を取り仕切るのだから縁は異なものだ。
 山本譲二とは、昔、高樹町にあった「どらねこ」というスナックですれ違った。弾き語りと酔客の縁。彼の「みちのくひとり旅」は、三井健生が必死の宣伝マンぶりで、他人事ならずと後押しをした。川中の「ふたり酒」には、悪ノリし損なった悔いがある。当時、悲痛なまでにドラマチックな歌を追い求めていて、その対極の〝しあわせ演歌〟を見落としたのだ。この夜、特別ゲストの杉良太郎とは、彼のブレーク前から〝良太郎同志〟のよしみがある。すぎもとまさとの「吾亦紅」は悪ノリ成功を自認しているが、彼の歌もツボを抑えて、泣かせた。
 テイチクは昭和9年に発足した帝国蓄音機株式会社が改称した会社。僕は南口重治社長から現在の石橋誠一社長まで、歴代の社長の知遇を得ている。
 《それにしても...》
 と残念な気がしたのは、南口社長にお尻を叩かれてプロデュースした「舟唄」や「雨の慕情」が出て来なかったこと。後者はレコード大賞受賞曲だが、その直後、八代亜紀チームが社長の勘気を被って他社へ転出した。人間関係のもつれがこの会社の実績に影を落とす怖さを実感する。
 さて一夜明ければ14日の明治座、川中は公演を代表する女優の顔に戻っていよう。僕も心して舞台を務めねばなるまい。

週刊ミュージック・リポート