「さぁラスタチだ。行こうか!」
明治座の楽屋23号室を、三人の男が後にする。尾張藩の実弟・徳川通温(みちまさ)に扮する真砂皓太と、大名、武士、捕方など一人何役もこなす綿引大介、それに小石川療養所の医師の新出玄条役の僕。親しく長い友だちつき合いで、楽屋は和気あいあいだが、打ち揃って舞台下手へ向かう通路では、それぞれが次第に役の顔になっていく。
「ラスタチ」は「ラスト立ち回り」の略。この劇場の2月「松平健・川中美幸特別公演」のうち、松平が主演する「暴れん坊将軍・夢永遠江戸恵方松」(脚本齋藤雅文、演出水谷幹夫)の大詰めの乱闘シーンを指す。幕府転覆を目論む面々が密会する清涼院へ、旗本徳田新之助、実は八代将軍徳川吉宗の松平が突入する。川中が演じる人質の旅芸人で、幼なじみのお駒を救出した挙句の大立ち回り。真砂の通温は、将軍の座を奪われた尾張藩積年の遺恨からクーデターを主導する大敵(おおがたき)で、最大の敵役を芝居ではこう呼ぶ。
殺到する殺陣勢の中央で、松平・新之助がギラリと刀身を背に切り替える。テレビの「暴れん坊将軍」でおなじみだが、この主人公は必ず相手を峰打ち、決して人を殺さないのがこのシリーズの人気の秘密の一つだ。打ちかかる面々は、長年東映時代劇を支えて来た剣会のベテラン西山清孝と田井克幸に、名うての殺陣師谷明憲が率る剣友会の小西剛、荒川秀史、橋本隆志、白国与和、大迫英喜、林直生が中心。それに小林茂樹、安藤一人、瀬野和紀らが加わる。
乱闘と言うのは、文章にしにくいものだ。大柄な松平が身長に合わせた専用の長めの刀で、不穏分子をなぎ倒す。そこに「御用だ、御用だ!」と笠原章扮する江戸町奉行・大岡忠相指揮の捕方たちまでが入れ乱れる。僕と同室の綿引は、着物を二枚重ね着をし、足袋も白と黒の重ね履き。クーデター派の武士として松平に倒されると、早替えで捕方に変身するせいで、似たように忙しい役者が何人もいる。
いわば肉弾戦である。雄叫びと呻き声がこだまし、松平に殺到する刀、槍、棒の林。その一人々々をはね返し、打ち倒して、松平の剣さばきは目にも止まらぬスピードと鮮やかさ、激しさ。熟練の剣士と腕利きの斬られ役が、けいこで練り上げた手順で交錯するのだ。共演の川中が「日本一!」と絶賛するシーンだが、やっつけられる方はゼイゼイ息が上がりそうになりながら、舞台そでで武器を持ち替えてまた乱闘へ戻って行く─。
「ラスタチ」の最後は、大敵の真砂が松平に成敗されるシーン。花道で切り結んだ真砂が舞台中央へ逃れ、絶叫とともに打ち掛かるのを、松平が大刀一閃、胴を払い、のめり込む背へ懲悪のもう一太刀、悲鳴をあげた真砂は膝から崩れ落ち、高くあげた左手をふるわせながら倒れ込む。それを尻目に舞台中央で、松平が決めのポーズを取ると、盛大な拍手の中で緞帳がゆっくり降りていく良い場面。今年、芸能生活40周年の松平と、腹心である真砂はそのうち32年をともに過ごしたいわば師弟。善悪二色に分かれたが、二人揃っての決定的な見せ場である。
《それにしても...》
と驚嘆するのは、乱闘を終えた松平が息も切らさぬタフさ。劇場内に響くくらいの音で、二太刀加えられた真砂は、8秒前後の断末魔のあと、俄かには立ち上げれぬくらいの消耗ぶりだ。その間の二人の戦いを、舞台そでで注視するのは殺陣のボス西山。衣装の黒装束のままで、座長の殺陣の万一の不測の事態に備える身構えに見てとれた。 その西山は72才。現役最古参の殺陣の達人だが、驚くべきことに、松平のショー「唄う絵草紙」では、あの金キラキンの衣装で「マツケンサンバ2」を踊り、9分近い長尺の「マツケンサンバ4」でもサンバ棒を振り、サンバステップを踏む。息子みたいな若者たちに混じっての奮闘で、よく見れば剣友会の面々も天晴れなダンサーぶりを示して和洋両戦。「暴れん坊将軍」は痛快時代劇として人気を高めるが、彼ら無名の剣士たちがしっかりと、その下支えをしていると合点がいった。