新歩道橋870回

2014年4月25日更新


 
 「望郷新相馬」「お父う」「望郷やま唄」と、花京院しのぶに作った歌は3曲である。シングルが2枚で、残る1曲は「流れて津軽」のリメイク。その3曲がいっぺんに、カラオケ大会に並ぶのだから豪勢だった。十一月十五日、山形・天童温泉の舞鶴荘で開かれた「佐藤千夜子杯歌謡祭2009」でのこと。タイトルの佐藤はこの地が生んだ往年のスターで「東京行進曲」「ゴンドラの唄」「紅屋の娘」などのヒットを持ち、デビュー曲「波浮の港」をレコーディングしたのは昭和三年――。
 花京院の歌は3曲とも、難曲の部類に入る。高音を主に音域の広い民謡調。新人用としては厄介な代物だったが、それを歌いこなす力量が、彼女にはあった。だからビクターのアサクラともども、秘かに狙ったのはカラオケ上級者御用達。成世昌平の「はぐれコキリコ」の〝次!〟だった。決して若くはない無名の歌手で、金もないし有力プロダクションの後押しもない。それならば...と、本人はともかく、楽曲が生き延びていくことを念じたのは、いわば逆転の発想だった。
 昔々、キング芸能に居て、大月みやこのデビューまでを手がけた島津晃氏の持ち駒である。仙台の花京院(という地名がある)で見つけ〝女三橋美智也〟に育てようとした。津軽三味線の立ち弾きもやるのは、その夢の実現への手がかり。地元仙台で二十年余の草の根活動のあとに、
 「そろそろ何とかしてよ、俺ももう年で、先が長くないから」
 という島津さんともども、僕を再び訪ねて来たのは十年以上前のことだった。島津さんはもともと岡晴夫の前歌を歌い、後にマネジャーに転じたキャリアを持つ。戦後歌謡史の生き字引、僕は昭和三十八年に音楽記者になって以後いろいろと教えてもらった。地元仙台での花京院の地盤づくりをすすめたのも、実は僕だった。
 そんな行きがかりと意味あいを持つのが「望郷新相馬」「お父う」「望郷やま唄」の3曲である。それを東北ののど自慢たちが、それぞれの声と節回しで歌った。3曲ともカラオケ大会で多く歌われてはいるが、勢揃いにでっくわしたのは初めてである。島津さんと花京院の、いまだ孤立無援の草の根活動が、ここまでこの楽曲を育てたのかと思うと、審査員席で感無量になる。
 それにしても天童のカラオケ大会、お前さんもよく行くねえ...と、肩をすくめる向きもあろう。僕だってそう思うのだが、地方の催しに参加するのはこれ一つくらいである。というのも実行委員長の矢吹海慶氏が僧侶、事務局長の福田信子さんが主婦なのをはじめ、企画、制作から当日の運営まで、スタッフ全員が熟年のボランティア。文字どおりの手づくりで、不器用だが誠心誠意、あちこちに頭や足をぶつけて、コブやアザだらけになりながらイベントを育てて来た。今年が9回めで、審査員を困らせるほどの歌巧者が揃う。大会が認知され、参加する人たちの地域が広がったせいで、天童活性化の願いも実りつつある。
 山形といえば、僕らのつき合いでは「大臣」である。そのニックネームを持つ木村尚武プロデューサーは、審査員としてはもちろんの参加だが、乞われてゲスト歌手も提供している。お抱えの大泉逸郎も出たし、今回は浜博也と柳ジュンが登場した。「新宿二丁目・迷い道」で熟女ファンの追っかけを持つ浜は、この日も盛んな声援を浴びて、その実力!?のほどを示す。柳は北海道・旭川の冬をテーマにした「夢去りぬ街」で年期の歌声を聞かせた。大臣のプロダクションの面白いところは、そんな歌手たちがみんな、地元の山形出身であるこだわり方だろうか。
 そして、花京院しのぶもこの日ゲストで招かれていて、問題の3曲をたて続けに歌った。そのステージのあとさきには、会場ロビーでCDの即売。
 「お陰さまで、だいぶ売れました、アハハハ...」
 と、実に何とも屈託のない明るさで、これも審査で居合わせた、アサクラをホッとさせたりしたものである。

週刊ミュージック・リポート