新歩道橋879回

2014年6月6日更新



 「歌はやっぱり、一にも二にも、声だな」
 5月27日夜、なかのZERO大ホールで新田晃也を聞きながら、しみじみ歌手の武器を再確認した。響き過ぎるくらいのバリトン、中・低音部が男っぽくて、高音はそのまませり上がり、哀愁の色が強くなる。それが、
 〽こんな名もない三流歌手の、何がお前を熱くする...
 と、幕開けからズンと来る。彼自身が作詞作曲した「友情」という曲で、自身の現状がスパッと言い切れていて好きな曲だ。
 「いいんだよ、それで。目指すは三流のテッペンだ。俺もスポニチで、それを成就した」
 そんなことを面と向かって言いながら、もう何十年の付き合いになるだろう。
 新田は今年70才の古稀、来年は歌手生活50年になると言う。昔々は銀座の名うての弾き語り。阿久悠が初期に、全国の港を回って作ったアルバム「わが心の港町」の全曲を、上村二郎の名で歌った。才能を評価した阿久や久世光彦らと、レコード歌手の道をすすめたが、
 「今さら、新人歌手でございますなんて、まっ平ですよ」
 と言い放った奴だ。以来ずっと、自作自演の演歌系シンガー・ソングライターとして意地を張って来た。昭和34年に集団就職列車で福島県伊達市から上京、彼なりの独立独歩である。僕が初めて会ったのは、
 「浅草公会堂。春日八郎さんの楽屋です」
 と、僕が忘れたのに彼の方が覚えている。
 コンサートの二部。「昭和メドレー」と名付けて12曲。彼が生い立ちの記を歌った。「哀愁列車」「りんご村から」「かえり船」「大利根月夜」「皆の衆」「黒い花びら」「君恋し」「別れの一本杉」...。少年期からの彼の心を揺すった歌たちだろうが、7歳年上の僕も同じ〝歌時代″の中で育った。
 「ン?」
 と気づくことがある。昭和30年代を軸に「演歌」というジャンルにくくられている懐メロだが、演歌というよりは「歌謡曲」の匂いの方が強い。
 《やっと、歌謡曲の時代が来たのかも知れない》
 4日前の5月24日を丸一日、僕は芝のメルパルクホールで「日本アマチュア歌謡祭」の参加者120人の歌を聞いた。歌われた作品は近ごろの演歌ではなく、彼や彼女ら思い思いの歌謡曲である。作曲家で言えば三木たかし、浜圭介、ご時勢柄の杉本眞人。一番多かったのは弦哲也ものだったが、彼の作品の中でも歌謡曲寄りのものが目立った。
 このイベントはもともと、僕らがスポニチ主催で起ち上げたが、今年が30回記念大会。規模内容ともに日本一のものに育っていて、参加者の歌唱力の水準は呆れるほど高い。
 《だから、歌謡曲なのかも知れない...》
 と、僕は考え直す。歌巧者たちはみな、見せ場聞かせどころを狙った選曲をする。覚え易く歌い易い演歌では、その野心が満たせない。その証拠に、演歌が出て来ても、それは民謡のあんこ入りや長いセリフ入りの、どちらかと言えば難曲が多かったではないか。
 新田晃也もその代表だろうが、歌に自信がある向きは、山あり谷ありのドラマチックな作品を得意とする。そして、ここが大事なことなのだが、そういう聴きごたえのある歌手や作品に、聴き手の関心が集まり始めている。新田コンサートの休憩時間、トイレに列を作ったのは男たちだった。口々に語る感想にも、なかなかの聴き上手と酔い上手の気配が濃い。多くが熟年だが、
 《この人たちにCDを買わせるための、攻撃的な作戦こそ必要なのだ》
 と、僕は合点した。それが売れれば苦労はない...と諦めて、歌謡界は長いこと、万事安易に流れすぎてはいないか?
 新田は50年、無名のままだが、
「歌い続けられることが、どんなに有難いか!」
 が本音らしい。しかし、新曲の「寒がり」が陽の目を見つつある。作詞は石原信一、彼は会津若松の男で、伊達の新田とは福島同志だ。〝石の上にも3年″と、二人でこの曲に賭けるあたりには、東北人の粘り強さがうかがえる。

週刊ミュージック・リポート