新歩道橋885回

2014年8月11日更新



 北島三郎は30年前に母を、15年前に父を見送っていた。だから彼は長く、大野一族の主として、周囲を取り仕切って来た素顔を持つ。それが5人の男兄弟の末弟、大野拓克氏を施主として弔う辛い夏を体験した。7月25日、東京・品川区の桐ケ谷斎場であいさつに立った北島は、最初から涙声だった。彼を「兄貴!」と呼び、「オヤジ!」とも呼んだ興行関係のパートナーを失った悲嘆は、想像に難くない。享年67、若過ぎる死である。
 訃報は21日の午前、京都南座の楽屋で聞いた。すぐに共演者の一人、安藤一人に知らせ、友人の真砂京之介に電話をする。二人とも北島の舞台公演に参加して来た役者で、拓克氏との縁が深い。拓克氏は北島音楽事務所の常務取締役で、北島公演やコンサートをプロデューサーとして担当、その手腕に定評があり、役者たちの面倒見もよかった。豪快な酒の噂は、友人たちからよく聞いていた。
 北島は9月明治座を皮切りに、大阪新歌舞伎座、九州博多座で、ファイナル公演を予定している。昨年大晦日でNHK「紅白歌合戦」を卒業、今回で劇場の長期公演を打ち止めとする。拓克氏はその最後の晴れ舞台を見届けることを楽しみにしていた矢先に逝った。北島の無念を思うと、役者たちは暗澹とならざるを得ない。桐ケ谷の葬儀を手伝う人々の中に、田井宏明の顔もあった。子供のころから俳優北島の身辺にいた気さくな芸達者だが、表情は沈痛そのものだ。
 献花の列には松平健、川中美幸、島羽一郎、島津亜矢らに小金沢昇司、原田悠里ら北島門下生、それに共演する大勢の役者たちが揃った。弔辞では明治座、新歌舞伎座、博多座のそれぞれの社長が霊前に並び、北島公演の成功を誓う。二礼二拍手一礼の拍手は忍び手、神式による葬場祭告別式に会葬者は600人超で、全国の演劇、興行関係者が目立った。
 「67か、まだ若いのにな。肝臓がんだろ、がんって病気は、どうにもならない...」
 出棺前の控室で、九州の鈴木企画鈴木晶順会長、バーニング・プロの周防郁雄社長、新栄プロの西川賢(山田太郎)社長らと雑談する。僕もそうだが、みんな北島と同じ新栄育ち、故人とも親交がある。
 《桐ケ谷斎場なあ...》
 僕は美空ひばりの顔を思い浮かべる。平成元年6月26日、僕はここで、作曲家市川昭介と一緒に彼女の骨を拾った。17年8月にはここで、自分の母親の葬儀を営んだ。取り仕切った花屋のマル源鈴木照義社長は、今では小西会の有力なメンバーの一人スーさん。拓克氏の葬儀もしっかり手伝っていて、彼ももとはと言えば新栄育ちだ。
 「今年の暮れで、もう三回忌か...」
 隣の席で山田太郎がうなずく。うんと世話になった新栄プロ西川幸男会長が亡くなって、もうそんな月日が流れている。7月17日は石井好子の命日だった。8月1日は阿久悠、3日は友人田村広治、22日は藤圭子の命日。そう言えば石坂まさをは3月だったか。長くこの世界にいると、いろんな人との別れが積み重なっている。思い出し供養の夜がふえる―。
 北島は今年10月に78才になる。僕も同い年だから思うのだが、この年になると親しい人の死はズンとこたえる。まして北島の場合、拓克氏は実弟で、病が重篤なことは伏せていた。幅広い交友関係に心配をかけまいとする気苦労も重なっていたろう。
 「何か言うたびに、涙が止まりません...」
 という施主あいさつの冒頭から、涙声になるのも無理はなかった。
 その声が胸の中で響き続けるまま、僕は真砂京之介と行きつけの店、銀座・いしかわ五右衛門へ戻った。昼食の商売もしていることを思い出しての精進おとしである。気のいいお女将も大将も、黒いスーツの二人にけげんな顔になったが、事情を知ると、それは大変でした...と神妙な表情になる。真砂は還暦の今年、「皓太」から「京之介」に芸名を変え、心機一転を目指す。9月、明治座の北島公演が新しい芸名の初舞台。
 「そのあいさつもさせて貰いたかった」
 腕ききプロデューサーとの別れに、その口調は重かった。

週刊ミュージック・リポート