新歩道橋893回

2014年10月31日更新


 「新宿でしたたかに飲んで、酔った彼女をタクシーでマンションへ送った...」

と、どうしても話はそこから始めるしかない。

  「歌を作ったんだけど、聞いてくれる?」

  と言う彼女に従って、僕は彼女の部屋へ上がる――こう言うと何やら、艶っぽい一件に受け取られそうだが、主人公は加藤登紀子で50年近く前の話。その夜彼女のギターの弾き語りで、スポーツニッポンの新米記者の僕が聞いたのは「ひざ小僧の子守唄」で、これが後に加藤の出世作「ひとり寝の子守唄」になる。

 10月14日の午後、六本木のビルボードライブ東京で開かれたのが加藤の歌手活動50周年記念パーティー。僕はその冒頭でのあいさつを頼まれた。彼女が世に出るきっかけが日本アマチュアシャンソンコンクール二回目の優勝で、このイベントをやったのが石井好子の事務所とスポニチの縁がある。当然みたいに僕は加藤番記者になり、以後50年の親交があったから、それがあいさつ起用の理由だ。

 「東大生シャンソン歌手誕生!」とマスコミ受けはなかなかだったが、レコードデビューは歌謡曲の「赤い風船」仕事といえばお定まりのキャバレー回りで、まるで受けない。静岡あたりの店で客に野次り倒され、開き直って童謡を歌ったなんて夜が続いた。おりから1960年代後半、フォークブームが起こり、シンガーソングライターの時代が来る。加藤の「ひとり寝の子守唄」はそんな時流にピタッとはまり、シャンソン―歌謡曲―フォーク...の三段飛びが成功する。僕は彼女ともどもフォーク界に参入したから、年齢は大分違うが同期生。浅川マキ、岡村信康、泉谷しげるらと知り合うことになった。

 この日のパーティー会場は東京ミッドタウンの一隅にあり、昔、防衛庁があった場所。70年安保闘争で若者たちが戦場としたことで知られるが、加藤の夫君藤本敏夫氏はその指導者だった。

 「おかげで8カ月も、拘置所のお世話になって...」

 と、加藤は笑い飛ばしたが、会場選びにはそれなりの思いがあってのことらしい。後で知ったのだが「ひとり寝の子守唄」は、獄中の彼への恋唄だし、彼と獄中結婚をし、3人の子ももうけた。刑を終えた藤本氏が千葉に鴨川自然王国を興し、農業から環境問題に取り組む事業にも献身している。加藤の歌手活動の前半は、文字通り波乱万丈で、密着した僕など、あれよあれよの連続だた。

 パーティーの客250人余は、加藤の交友関係の帽広さ歴然で多士済済。それぞれが加藤のこれまでのあちこちで親交を持つから、加藤の話も往時へ行ったり来たりする。もともと彼女のレパートリーは、彼女の生き方考え方と表裏一体。歌う曲ごとに生のエピソードがつき、それに共感の輪が広がるから、会場は笑い声が絶えない親密さで満たされていく。

 催しのタイトルが「今が人生どまん中!」と来て、古稀の人にしてはずいぶん欲ばったもの。ところが、母親が健在で99才、1才の孫がいて、

 「だから、私の人生、どまん中なのよ」

 と、本人のタネ明かしがあって、これにも大爆笑だ。その母親がエディット・ピアフと同い年で、その波乱の人生と歌の数々にも強いシンパシーを感じるとか。もともとシャンソンからスタートしたのだし...と、歌った「愛の讃歌」は、この日一番の熱唱で、歌い終わった表情には珍しく陶酔と達成感の気配があった。

 世界の国々を旅して、行く先々でその国の人々の営みを熟視、いい歌を見つけて持ち返る作業も精力的だ。新聞記者は時に「何かと言えばジャンル分けしたがる」と嫌われるが、加藤はいわばノージャンル。

  「せっせと種まきをして、気がついたら50年、その広々としたフィールドを、今やっと見渡しています」

 と、本人が会の招待状に書いていた。どうやらこの人は、加藤登紀子という特異な人生を旅して、加藤登紀子というジャンルを興したのだなと合点がいった。

 娘の一人藤本八重は結婚し、夫とともに鴨川自然王国を受け継いでいるという。2002年に亡くなった藤本敏夫氏の遺志は、加藤家にしっかりと生きているようだ。

週刊ミュージック・リポート