新歩道橋902回

2015年2月7日更新


 作曲家の弦哲也とじっくり話をした。彼は今年、音楽生活50周年。珍しく作詞をし、作曲を五木ひろしがした記念シングル「犬吠埼~おれの故郷」を出し、半生記の「我、未だ旅の途中」(廣済堂出版)を出版、全国で記念コンサートをやる。
 「節目の年だからと、ありがたい話をもらって...」
 と、例によって彼は穏やかな笑顔だが、話してみればエピソードの山盛り。人の縁に支えられ、その一つ一つを着々と生かして来た50年分が、面白おかしく汲めども尽きない。ずっとやっているMC音楽通信の機関紙の対談だが、タブロイド版2ページに収め切れずに往生する。
 ひょいと、三木たかしの名が出て来た。弦が故郷の千葉・銚子を離れ、14才で上京して転校した先が北区の堀船中学校。三木はそこの先輩だったそうな。もっとも年齢が違うから、三木はすでに卒業していたが、武勇伝は残っていた。僕も本人から直接聞いたが、荒川を舟で渡って、赤羽あたりのグループになぐり込みをかけたこともある。相当にやんちゃな先輩と、至極真面目な後輩という間柄になろうか。
 「後を、頼むよ」
 と、最晩年の三木から掛けられた声が、弦は忘れられないと言う。歌づくりから作曲家協会のこと、レコード大賞のことなど、推測すればいろんな意味があったろうが、弦はそんな三木の遺思を大事にしようとする。作曲家協会の理事長で音楽著作権協会の理事で...と、近ごろいくつも肩書きを背負っている。多忙なヒットメーカーの部分と、時間を繰り合わせて頑張っているのだろう。三木も最後までそうだったが、実績と人望を両手にしている分だけ、周囲から推されるのだから、否も応もあるまい。
 「あいつが逝って、今年はもう7回忌だ」
 三木は親友であり、媒酌人をやらされもした仲だから、僕もしみじみとなる。未亡人と呼んだら若過ぎる恵理子夫人から、法要の会の相談を受けて、喜んで手伝う返事をしたばかりだ。祥月命日は5月11日、日程はそれを前倒しして...と、相談相手はミュージックグリッドの境弘邦社長。歌社会の祝儀不祝儀を長くやって来たコンビだから、
 「また、表の小西、裏の境か...」
 と、冗談から始まってツーと言えばカーだ。
 ここのところ流行歌の流れは、はっきりと演歌から歌謡曲へ、移行している。決して演歌がすたれるはずもなく、いい歌だったらあれもこれも...の賑いが求められてのことだろう。
 《だとすれば、三木たかしの出番だよな》
 と僕は、死んだ友の年を数える形になる。あいつが元気だったら、ああもしたろうこうもしたろうと、三木が書くだろうメロディーを夢想するのだ。没後6年経っても、三木の歌書きとしての存在感が、薄れることはない。未発表の曲が相当数あると聞いた。それを世に出す手伝いをしようか!
 芝居のけいこの合い間を縫っての、弦との対談であり、三木への物思いである。流行歌評判屋としては、やらなければならない仕事を多く後回しにしている。1月27日には三木の7回忌の打ち合わせを欠席した。川中美幸の周辺には新年以降いろいろあったが、みな不義理をした。川中は僕に役者への道を開いてくれた恩人なのに、その顔出しを芝居のけいこで欠席とは皮肉な話だ。28日には作詞家山口洋子のお別れの会があったが、これもごめんなさい。花を手向けるべきを、夜の居酒屋で共演者相手に、回想談の長広舌でその代わりにした。申し訳ないが、文字通りの〝うわさ供養〟である。
 僕の2月公演は、5日から8日までの4日間6回、中目黒キンケロ・シアターで、劇団若獅子プロデュースの「歌麿~夢まぼろし」(笠原章作、演出、主演)だ。浮世絵師喜多川歌麿と謎の絵師東洲斎写楽を手玉に取ろうとする、版元蔦屋重三郎が僕の役。やたらに多いセリフの束が、四六時中、頭の中を堂々めぐりしている。そう言えば弦哲也も、受注した幾つもの曲の断片が、音符になってしょっ中、頭の中をはね回ると言っていた。思いがけないところで、売れっ子作曲家と二足のわらじの老優が、似た体験をしていることに気づいたものだ。
週刊ミュージック・リポート