新歩道橋903回

2015年2月21日更新


 「日本一! 巨大円型3Dプロジェクションマッピング劇場」
 なんて、大上段に振りかぶろう...という話になった。4月27日、栃木・日光市にオープン予定の「船村徹記念館」の売りもの。入場するといきなり、そういう映像施設のお出迎えになる。船村の郷里・栃木の四季から、彼の歌づくりの道筋を見せて、テーマふうに流れるのはやっぱり「別れの一本杉」である。それが美空ひばり、島倉千代子、北島三郎、ちあきなおみ、大月みやこ、鳥羽一郎らの舞台に展開、ひばりは不死鳥になって宙へ翔ぶ。全部が圧倒的な立体で、どでかい空間を満たし、やがて船村の音楽は日本から世界へ広がっていく。
 3Dは判るが、プロジェクションマッピングとなると、いささか知識が心許ないが、
 「何しろ日本一だ。これだけは確保しよう」
 と、最先端技術を総動員する掛け声を、準備段階から言い募った。この種のコンピューター仕掛けは日進月歩である情報は持っていて、
 「負けるな! 追い越せ!」
 の号令に、大勢のスタッフが当然、不眠不休になった。
 湘南・辻堂の船村家へ、資料が山ほど持ち込まれる。乃村工藝社の藤本強プロデューサーとアクロスという映像制作会社の馬止理行社長は、かつて星野哲郎記念館を作った時の仲間。気心が知れているからここ2、3年ガンガン言い合って来た。リーダーの船村夫人・喜怒哀楽社の福田佳子社長、秘書格の山路匂子さんが、それぞれの夢を重ねる。3階建ての記念館の、各コーナーの映像と音楽のあれこれ、飾るものの取捨選択、展示の仕方の細部まで、夢にまで出てくるほど続いた作業が大詰めだ。
 船村の歌づくりの拠点・楽想館がある今市が、日光市と合併した。目抜き通りの再開発で、道の駅みたいな大きな商業施設が出来る。そのシンボルと位置づけられるのが記念館だが、
 「そういうものが、生きているうちに出来るのはいかがなものか」
 と、当初船村本人は首をかしげた。しかし、日本の大衆音楽を代表する大物作曲家であるうえに、栃木への愛郷心はなみなみならぬ人である。この際、是非...という地元の期待は熱かった。何しろ作詞家髙野公男が茨城弁で詞を書き、船村が栃木弁で曲を書くところからスタートした作曲人生ではないか!
 「先生の人柄を反映しながら、これ以上ないものにしなければ...」
 と、レコード各社の船村担当やOB諸氏も気合いが入った。ぼう大な音源の確保と許諾問題、散逸しがちなジャケット写真のかき集め、展示されるスター歌手たちの資料集めなど、作業は複雑で多岐にわたる。地元対策も含めてカラオケ・ルームを作るとなれば、
 「演歌巡礼で先生と一緒の仲間たちバンドの演奏で...」
 などの欲が出る。それならば...と代表曲の演奏録音と映像づくり。記念館へ来たカラオケ自慢は何と、斎藤功のギターをはじめとするおなじみのメンバーをバックに歌えるうえ、その様子をDVDに焼いてお持ち帰りも出来るようになった。
 「まず、俺たちが歌いたいねえ」
 と、船村チームはみんな歌好き、のど自慢だ。 どこの地域でもそうだが、建築を主導する市の関係者の考え方は、ハコモノ造りに傾きやすい。ところが福田社長以下のこちらは、中身をどうするかを中心に考える。いってみれば、ハード組とソフト組の夢の突き合わせが話し合いの軸。月に一度の割合いで、もう何年会議をやったろう...と、大詰めの顔を見合わせている。双方とも、二度と体験できない大仕事だから、いつからかお仲間の体温になった。
 2月11日の辻堂会議は、ソフト組の詰めの打ち合わせ。口角泡をとばした後は、いつものことだが夕刻から、船村家近くのこじゃれた店で、お疲れさんの一杯! になる。この期におよんでもまだ、あれこれ言い募るのは藤本・馬止の二人組。僕は焼酎〝三岳〟をお湯割りでやりながら、9日までやった芝居の役柄、江戸時代の版元蔦屋重三郎がまだ心身に淀むのから無理やり解脱する。頭の中で鳴り始めているのは、歌謡少年時代からなじんだ、船村メロディーのあれこれだ。
週刊ミュージック・リポート