鍵の手にカウンターがある。足許は掘り炬燵ふう。そこへ暖簾の向こう側からふらりと僕。紺の浴衣で手拭いなど肩に、湯あがりのテイだ。
「やあ、やあ」「どうも、どうも...」
と出迎えるのは作詞家荒木とよひさと、常連の「スーさん」こと岐阜新聞と岐阜放送の会長杉山幹夫氏。聞けば90才を越したご仁だが矍鑠を絵に描いた若々しさ。それにもう一人「オカちゃん」はラジオ、テレビのパーソナリティーを兼ねた文筆家オカダミノル氏だ。
僕の紹介はおおむね済んでいて、くつろいだ雰囲気の中で、いきなり雑談が始まる。荒木と僕の出会いから、長い交友のあれこれ。お互いの仕事への認識は、双方笑いをまじえてのヨイショごっこだ。
「女心ソングを書かせたら当代随一。そう言い切ったら亡くなった吉岡治から、それじゃ俺はどうなるの...と苦情が来て...」
などと言うと、スーさんが嬉しそうに笑う。
岐阜テレビの「荒木とよひさの男の湯や番」という30分番組のビデオ撮り。荒木の庵にゲストが遊びに来て、一ぱいやりながらトークという形式で、5月25日収録分に僕が呼ばれた。徳利と杯と手料理が出ていて、ホストの荒木の分は実は水だが、僕の徳利には本物を頼んだ。台本もなしの気安さだから、僕はついつい〝その気〟になる。
「カメリハやります」
と、石原靖紘ディレクターが言って、いきなりそこは「座右の銘曲」というコーナー。毎回ゲストが思い出の一曲を披露するとかで、僕は「夜露のブルース」だ。荒木のギターで歌うのだが、1コーラスのはずが「いいじゃないか!」で2コーラスに増えた。テレビに出て歌うなんてことは初体験だが、そう言えば巷でこれを歌うと、死んだ三木たかしが、
「ビブラートが強すぎる!」
と、眉をしかめたことを思い出した。
その後、番組そのものがいつ始まって、いつ終わったのかも定かではないやりとり。
「荒木先生が緊張するのを初めて見ました」
と、ディレクターが面白がったから、いつもとは一風変わった内容に仕上がったということか。軽い打ち上げは若宮町の割烹「はやさか」で、長良川の鮎など馳走になりながら、芋焼酎をグビリグビリ。映画監督でもある荒木が
「あんたにはその顔、雰囲気のまんま、徹底したワルをやらせてみたい」
などと言い出すから、
「あと1年ちょっとで80才になっちまうから、早いとこ頼むよ」
と、僕はしっかり念を押した。
《うむ、山の風もいいもんだな...》
一夜明けて、金華山を見上げながら、僕はそう思う。用意された岐阜グランドホテルの角部屋の一室は、何とセミスイート。斉藤道三が作ったという城を頂上にいただいた山の緑が、窓いっぱいに迫って溢れんばかりだ。日ごろは眼下の海と向き合う湘南葉山ぐらし。潮の香りと海風に慣れ親しんで、
「これなら103才までは生き延びそうだ」
と、冗談の寿命に3年分加算している。それに山の風の爽やかさを加えたら、一体幾つまで生きることになるやら。何しろ岐阜はつれあいの在所で、金華山のふもとにもう一つ住み家がある。
のんびり旅気分も実はそこまでで、26日夜は岐阜から東京を通り越して埼玉の寄居へ入った。新幹線を熊谷で降りて秩父鉄道で寄居へ。一時間に2本しかない鈍行に揺られて行くと、窓外の闇がやたらに深い。辿りついたホテルは珍しく和室で、
「ビジネスホテルにつき、寝具のあげおろしはいたしません」
と来た。すごすごと布団を敷き、翌朝はシャクにさわるが、また布団を押入れに収めた。
岐阜テレビ提供のセミスイートから、自腹の安宿へのあまりの格落ちに苦笑しながら、27日は真夏日、美里ゴルフ倶楽部の「演歌杯」コンペに参加する。〝虚匠〟坂口照幸がOUT45、IN41、HD16・80で優勝、相好崩しっぱなしなのを目撃、
《ま、こっちもこれでいい旅だった》
ということにする。僕も久々に100を切った。