新歩道橋919回

2015年8月1日更新


 《重い!》
 一冊の本を手にして、失礼だがまず目方を感じた。長田暁二さんの新著「戦争が遺した歌」(全音楽譜出版社刊)で本文が781ページ、厚さ5センチもある大作である。明治維新から日清、日露戦争、第一次世界大戦、日支事変、太平洋戦争と戦後にいたる折り折りに歌われた軍歌、軍国歌謡が253曲、全曲メロ譜つきで語られている。
 「これら多くの歌がいかにして生まれたのか、歌は人々にどのような影響を与えたのか、現代社会が触れようとしない事実を明らかにする」
 これが本の帯に記された一文。長田さんの仕事のコンセプトが明解だ。
 《う~ん...》
 僕は音楽文化研究家を名乗るこの先輩の執念にも似た思いに触れて唸る。彼がまだキングのプロデューサー時代から、いろいろと教えられた。昭和30年代後半、こちらは駆け出し記者で、夜を徹しての酒にご相伴した翌日、
 「今朝ほどはどうも...」
 の葉書を貰い、そのタフさとこまめさに驚嘆したものだ。昭和5年生まれの85才、その人がここまでの労作、力作を世に送る知力、気力、胆力、体力に脱帽する。戦後70年の今年、この出版物が持つ意味と意義は多岐にわたって深く、重い―。
 長田さんは歌が出来た背景、歌詞の内容を解明し、彼自身の懺悔の気持ちをこめようとした。全曲につけられた解説は、詳細な事実関係を中心にエピソード綴り。声高に非戦、反戦を語りはしないが、それがかえって長田さんの思いの熱さを伝えている。
 例えば「君が代」だが、この歌の原型が生まれたのは明治3年、薩摩軍の軍楽隊を指導していたイギリス人フェントンが作曲したとある。これが西洋的で明るい曲だが歌いにくく不評で、明治13年に日本人の曲に変わり、文部省が「祝日大祭日歌詞ならびに楽譜」として制定したのが明治21年。長田さんに負けず劣らずの銃後の少国民だった僕は、国歌としてこの歌を脳裏に刷り込まれて育ったが、国歌に定められたのは平成21年で、同時に日の丸が国旗になっている。スポーツの国際試合の歌と思っている若者たちは、この歌がどんなに長い年月、どんな役割を果たし、どんな浮沈の歴史を歩んで来たかも知らぬままだろう。
 軍歌はその時々、戦う兵士を鼓舞し、送り出す人々の心情を代弁する意図で作られ、歌われて来た。ことに太平洋戦争では、
 「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」
 の精神で民意を一つにする役割を果たしている。長田さんはその結果、
 「幼児、子供、老人、女性の死傷者は、軍人、軍属よりも多い」
 ことを指摘し、そういう事実があったのに、
 「現代ではNHKをはじめ多くのマスコミは、昭和歌謡の特集はしても、軍歌、軍国歌謡は飛ばしてしまう。学校の歴史教育でも、神代や戦国時代の話は教えても、昭和以降の特に戦争中の話は触れようとしない」
 と、序文で怒りをあらわにする。当時、NHKをはじめ大手新聞社は、新しい軍歌づくりで、先を争うように戦争に協力していたのだ。
 それらの軍歌に比べれば、軍国歌謡とくくられる流行歌には、一部に嫌戦の匂いがにじむ。それよりも庶民の本音が色濃いのは「兵隊ソング・非公認の兵隊愛唱歌」で「可愛いスウチャン」「酋長の娘」「軍隊小唄」「特攻隊節」「南国土佐を後にして」の元唄などの曲名が並ぶ。そういえば僕は少年のころ、軍歌の「月月火水木金金」の
 〽朝だ夜明けだ、潮の息吹...
 から始まる歌詞を、
 〽朝だ4時半だ、弁当箱下げて、うちを出て行くおやじの姿...
 と覚えた。海軍の猛訓練には土、日曜の休みはないとする歌詞が、一日5銭の安月給のしょぼくれ親父の歌におき替えられて、作者不詳の替え歌に表わされたのが庶民の本音だろう。
 僕の部屋には同じように〝重い〟本がもう2冊ある。作詞家三佳令二の名和治良プロデューサーが編んだ韓国歌謡集「韓国の心」(イサオ商事刊)と作詞家阿久悠が27年間、高校球児の青春を追跡した「甲子園の詩」(幻戯書房刊)で、どちらも電話帳みたいな厚さの労作。僕は暑いこの夏、長田さんの本とこの2冊を身辺に置き、折りに触れて読み返すことになる。
週刊ミュージック・リポート