新歩道橋928回

2015年10月24日更新


 突然スターが生まれる瞬間というのは、心ときめくものだ。最近で言えばラグビーの五郎丸歩選手。ワールドカップの活躍で、日本のファンの心をわしづかみにした。1次リーグ4戦で合計58得点、大会個人2位の成績だ。キックを決める前の、小腰をかがめ、両手人差し指を合わせて祈るようなルーティンが、すっかりおなじみになった。
 ラグビー・ブームと言ってもいい騒ぎが生まれたのは、南アフリカ戦勝利が発端。もともと巨躯をぶつけ合う格闘技系と思われたラグビーに、日本チームは新しい技術と戦術、戦略を持ち込んで、最大の強敵を倒した。「中よく大を制する」サムライ魂に世界がアッと驚き、僕らはテレビに釘づけになった。以後3戦、日本中がサクラ・ジャパンの活躍にわき返り、クローズアップされたのが五郎丸選手だったろう。
 《新日鉄釜石を中心に、昔々もブームはあった。でもあれは世界規模には遠かったかな...》
 あのころ〝その気〟になりやすい僕らは、勤め先のスポーツニッポン新聞社社内にラグビー同好会を立ち上げた。お揃いのユニホームを作り、その発足式は明大グラウンドで当時の北島監督の立ち合いという凝り方。それなのに前夜、ユニホームを自宅で試着したら、つれ合いが
 「仮装行列でもあるの?」
 と不審な顔をし、僕はガクッと来たものだ。
 実態は、ま、そんなものだった。参加した僕ら芸能記者は、二日酔いでランニングからすでに息があがり、パスの練習だけでネンザする者が出る始末。練習終了時にはグラウンドへ、近くの酒屋からビールのサーバーが届く。チーム名は「ジャッカル」と威勢がいいが、漢字表記は「弱軽」だったから、身のほどは知っていたと言うことか。
 リーダーが筑波大学出身の経験者。これが悪乗りして、何と青山の秩父宮ラグビー場での試合を組み立てた。相手はその世界の指導者たちで、高名だが年配者揃い。こちらは体格のいいのにスクラムを組ませて、場所が場所だけに意気だけはやたら軒昂だった。僕も何分か出場させて貰ったが、必死で駆け回ったものの、結局あのダ円型のボールには、一度もさわれなかった。
 「後で聞いたらさ、うちのリーダーが相手チームに、スクラムは押すな、タックルはかけるなと注文をつけていたらしいんだ」
 二、三日あと、飲み屋で作詞家吉岡治に話したら、「フン!」と冷笑が戻って来た。彼はラグビーや野球に熱中していた時期を持つ。新聞屋の酔狂で、ラグビーのメッカを汚してもらいたくない! とでも言いたげな顔つきだった。吉岡は女心ソング当代一の書き手として「後ろ向きの美学」で一時代を作った。寡黙な詩人だが、体技への取り組み方は、人が変わったみたいに真摯だった。
 《血は争えないものだ...》
 僕の連想はあらぬ方向へ飛ぶ。吉岡の存命中から親しくしている彼の長男天平氏だが、これが相当な巨体の持ち主。ラグビーに打ってつけに見えたが、今も取り組んでいるのがボクシングだと言う。映像の制作会社をやっているごく穏やかな紳士で、笑顔がなかなかにいい。仲町会の面々と一緒に飲んだ時など「天平! 天平!」と呼び棄てで無茶を言ったが、近ごろは彼の特技を考慮して、僕はリーチの届かない場所どりをする―。
 とりとめもなく、そんな往時を思い返していたのは、芝居のけいこ場のひととき。路地裏ナキムシ楽団が作、演出、演奏の「指切りげんまん」(下落合TACCS1179)公演は16日から3日間4回の舞台。このコラムが読者読兄姉の目に触れるころは、盛況裏に終了している勘定で、その実態と成果を、生々しくレポート出来ないのがまことに残念だ。
 《いやあ、いいグループの、いい公演だったな...》
 と、事後、僕はかなりの実感を持つはずである。作曲家弦哲也の息子田村武也が主宰するグループだが、彼の脚本や演出、歌づくりから音響、照明にいたるまで、こだわり方が細部にわたり的確で頭が下がるほど。応じる若いバンドや役者たちの献身的なまでの一生懸命と熱意が、初参加の僕には、とても貴重で得難い体験になったものだ。
週刊ミュージック・リポート