〝北の詩人〟池田充男とその女性の出会いは、60年以上前の二月の小樽駅、雑踏を離れてたたずむ海老茶色の角巻き姿が目についた。後年、その人と関わり合いを持つことになろうとは、その時彼は思いもよらなかったと言う。
ある夜明けに、その人はふるさとを捨てた。というよりは池田が捨てさせた。函館本線、青函連絡船、常磐線...と続く東京への旅。その後のめちゃくちゃな同棲生活の中で、彼は「この女を帰らせる訳にはいかない」と、腹をくくったそうな。作詞家池田充男の出発点である。池田は年上の彼女をずっと「おばさん」と呼んだ。池田夫人の名は倖子。本名は幸子なのにあえて「にんべん」をつけたのは、そうすれば彼の姓名と、字画が同じになるせいだと言う。胸中には彼女を「幸せ」よりも強めに「倖せ」にしたい思いがあったろうか?
その倖子さんが亡くなった。池田からの電話は、訃報なのにほとんど口止めだった。住み慣れた鎌倉で、ごく限られた親しい人たちだけで送りたい。
「せいぜい30人くらいと思うのよ」
彼はそのことばかりを言い募り、こちらの言うことなどほとんど聞いていない。少し耳が遠くなっているか...と、苦笑しながら僕は口外しない約束をした。
11月9日が通夜、10日が葬儀。式場は湘和礼殯館・由比ガ浜。洋風な個人の家みたいに、こじんまりした貸切り邸宅型で、参列したのは身内に弟子の作詞家たちと数少ない関係者。たとえば東京ロマンチカの鶴岡雅義、元NHKの益引泰男、元JCMの岡賢一の3氏ら。
「何だか、自分のことのような気がしない。実感がないと言うか...」
池田は落ち着かない顔で、やたらにあいさつをして回る。倖子さんの享年は90、池田は彼女を自宅で3年、病院へ入れてからは1年、看病した。言うところの老々介護で、
「自宅の風呂だとね、入れる時はまずまずなの。出す時が大変でね。やせていてもかなり重い。そのうちにお湯を抜いてから抱え出すとやりやすいと判った...」
と話が生々しくなった。
「煙草を吸っていたころは、部屋中を煙で真っ白にして、来る日も来る夜もペンを持っていた。そ~っと湯飲みを置いてゆく配偶者は咳き込んだ。病気をして煙草を取り上げられてからは、仕事に入るまでの心の持って行き所がなく、目をつぶって頭の中に、列車を走らせ、風景を流れさせた」
池田が「歌の駅舎・池田充男歌詞ポスター集」に書いている池田家のひととき。そんな生活から数多くのヒット曲が生まれるのだが、そういうふうに倖子さんは長く彼を支え、池田は甘え加減に身と時を任せていたのだろう。机に向かう彼の脳裡の列車は、雪原を走っていたに違いない。
ヒットメーカーの夫人の葬儀としては、つつましく地味だったが、少人数なだけに情がしみじみと通じ合う会になった。式場の人々の振る舞いもさりげなく細やかで、お清めの料理が和洋折衷、フルコースみたいな数々が多彩なうえに美味。池田は苦労をかけた倖子さんの野辺送りに、そういう形で意をつくしたかったのだろう。語弊を承知で書けば、とてもいい会になったのだ。
出棺前のあいさつで、珍しく池田は多くを語った。結婚生活60年分の、倖子さんへの思いが、訥々とした口調にこもっていた。病床で倖子さんは「もう一度、小樽へ行ってみたい」と言ったという。池田は、
「あのころとは北海道もずいぶん変わりました。来年3月には新幹線が走るそうです。身の回りの整理がついたころ、それに乗ってふたり旅をしようと思います」
と遅ればせながら、彼女の希望に応じるつもりを打ち明けた。倖子さんは小樽を捨てたあの日以来もしかすると、故郷の地を踏むことはなかったのかも知れない。生まれ育った環境も風景も、それより大事な人々との縁も断ち切ってしまった悔いが、少しでも彼女に残っていたとしたら、残された詩人の胸中は、察するにあまりある。池田はその旅で、倖子さんの霊に海老茶色の角巻きをまとわせるのだろうか?
式場に流れていたのは石原裕次郎の「二人の世界」東京ロマンチカの「小樽の人よ」と五木ひろしの「孫が来る」だった。彼が11年前にタンポポとチューリップに例えて歌詞に書いた孫2人は、立派な娘さんに育っていた。