新歩道橋947回

2016年5月22日更新


 いきなり劇画家上村一夫の話から始まった。酔えば必ずギターの弾き語りで彼が歌った「港が見える丘」について。ギターの弾き方があやしげだったこと。すきっ歯から息がもれて、歌もすかすかだったこと。歌詞の「あなた」と「わたし」をなぜか必ず「あんた」「あたい」に言い替えたこと。それが昭和の若者の庶民言葉だったこと―。
 それやこれやを朗読しているのは小泉今日子で、ネタは亡くなった演出家で作家の久世光彦のエッセイ。取り上げた曲を浜田真理子がピアノの弾き語りで歌い、その後ろに久世が頬づえをつくモノクロの映像が大写しになる。僕はそんなショーの一部始終を5月9日夜、日本橋・三越劇場で見た。タイトルが「マイ・ラストソング~歌謡曲が街を照らした時代」で、久世の名は「テキスト」としてクレジットされ、特別協力に夫人の久世朋子さんの名がある。
 《そうだよな、何だか沁みる歌だった...》
 僕の気分もいきなり昭和へタイムスリップした。久世が一緒だった夜も、居なかった晩もあるが、僕も上村の「あんた」と「あたい」を聞いている。必ず一緒だったのは作詞家の阿久悠で、僕は阿久原作、上村作画の劇画のファンだったし、二人とも僕が勤めていたスポーツニッポン新聞の常連寄稿者になった。阿久とは大河連載の「甲子園の詩」をはじめ、小説やエッセイを矢継ぎ早やに企画、実現し、上村にはせがんで短冊型の美人絵を週に一度描いてもらった。彼が「港が見える丘」を歌う夜に「頼んますよ!」「ようござんす!」と酔余のやりとりで決めた話。その後飲むたびに上村の秘書嬢から「原稿料、もっと上げて下さい」と連呼されて閉口したものだ。
 久世エッセイ、小泉朗読、浜田歌のステージは「バイヤ・コン・ディオス」だの「月の砂漠」だの「東京キッド」や「さくらの唄」だの「酒は涙か溜息か」だの「プカプカ」だのへ続き、「海ゆかば」にいたった。
 「死の間際に、一曲だけ聴くことができるとしたら、あなたはどんな歌を選ぶだろうか」
 をテーマに、久世が14年間も毎月書きつづけた選曲とエッセイが「マイ・ラストソング」である。人前では歌うことのなかったシャイな歌好きによる歌論は、人生の機微に通じ、独特の美意識に貫かれて得難い。それをこんな形で構成・演出したのは友人の音楽プロデューサー佐藤剛で、この男はゴールデンウィークの5月3日から9日まで、同じ日本橋三越本店の新館7階ギャラリーで「昭和のスターとアイドル展」を手がけていた。
 古賀政男・服部良一の世界を起点に、昭和の歌の歴史が展示されて一目瞭然だった。歌謡曲、アイドル、演歌、ムード歌謡、ポップス、GS、フォークと、ブロック群が時の流れに添っており、シングルレコードのジャケットが千枚近く、ポスター、写真、パンフレット、原稿、楽譜、楽器、衣装、ビデオ映像などが、リアリティを持たせる。こだわりのブースは美空ひばり、坂本九、美輪明宏、由紀さおりら佐藤がこれまでにかかわったスターたちの個人史に「昭和のテレビドラマと歌謡曲」と銘打った久世光彦の世界は、銭湯のノレンの奥だ。
 《よくもまあここまでこまごまと集めた。実に見事なものだ》
 と、僕は感じ入る。流行歌各ジャンルの意味合い、位置づけもきっちりと、昭和の歌の全容をここまで提示、展開したイベントは史上初だろう。それも「俯瞰する」理論を「楽しませる」エンターテイメント精神で包み込んでいて、なかなかの処理。昔、岡野弁氏が主宰した音楽情報誌「ミュージックラボ」の新入り編集者の彼とコラム「歩道橋」の筆者として僕らは出会った仲。佐藤剛の強みは、広範囲で精力的な資料収集と徹底的な読み込みの凄さ、それを生かす仕事の創意工夫と行動力だろう。
 「マイ・ラストソング」ショーは、この稀有の展示の画竜点睛イベントになった。浜田の歌声は媚びぬすがすがしさを持ち、小泉の朗読は時に久世のものを離れ、その内容と語り口に彼女自身のエッセイストとしての魅力をにじませて魅力だった。
週刊ミュージック・リポート