新歩道橋950回

2016年6月19日更新


 横須賀線の逗子から池袋まで、僕はしばしばグリーン車に乗る。
 「そんな、ぜいたくな!」
 と、役者の先輩は口をとがらせるが、決して身のほど知らずの仕儀ではない。車中の1時間ほど、僕はここで資料をあさり、原稿の下書きメモをし、ウォークマンで歌を聞き、パーティーのあいさつがあるときは、気の利いたフレーズ探しのあれこれ、芝居のセリフのおさらいもする。料金890円プラスで、僕はここを動く書斎にするのだ。
 〽死ぬまで生きる人生ならば...
 なんてフレーズに出くわすと、僕はニヤリとする。成世昌平の新曲「南部風鈴」の二番のサビ、久仁京介の詞である。そう言えば...と
 〽どうせ死ぬなら死ぬ気で生きて、生きて見せると自分に言った...
 なんて歌詞を思い出す。昔、小林旭が歌った「落日」の一節で、川内康範が書いた名文句だ。
 《「南部風鈴」ねえ...》
 成世の歌は四方章人の曲である。彼と久仁コンビは福田こうへいの「南部蝉しぐれ」で久々にブレークした。四方は「浪花節だよ人生は」以来の大ヒット、久仁の方は昔の名前が第一線復帰...と、軽口の原稿を書いたものだが、2012の秋のことだから、あれからもう4年になるのか。以後二人とも着々の仕事ぶりで、久仁は日本作詩家協会の副会長、四方は日本音楽著作家連合の会長と、人望まで手伝って要職についているから、ご同慶のいたりだ。
 成世の新曲は、福田の「峠越え」に続いて〝南部もの〟3作目に当たる。夢を追って女を捨て、都会の路地で月を仰ぐ男の望郷歌仕立て。各コーラスの3行めに
 〽チリリンリンリン、チリリンリン...
 と、風が鳴らす風鈴の音をはさんだあたりでひなびた情趣を盛る。しかし、四方の曲もそうだが、特段民謡調を狙う細工はなしで、しみじみした歌謡曲。それなのに成世が歌うと、独特の歌の押し引き、節回しの妙で、ちゃんと民謡調になるから面白い。その辺のかね合いが、ほどの良さ、気分の良さに通じているのか。
 成世の歌は「はぐれコキリコ」の大ヒットをはじめ、もず唱平と聖川湧が作り手を続けて、各地の風物をひと回り、長く詞・曲・歌のトリオを形づくっていた。それが今回、久仁・四方コンビに変わった訳だが、その台所裏事情は僕も知らない。そろそろ手を替えようという算術か、制作者の思いつき作家キャスティングか、はたまた別の思惑があってのことか...と、詮索するのはやめにした。いずれにしろ今作は、その組み合わせが成世の世界に新鮮さを加えたのだから良しとすべきだろう。
 横須賀線の車中でもう1曲似たような変化の作品に気づく。秋元順子の「ティ・アモ~風が吹いて~」で、作曲がレギュラーふうな花岡優平から杉本眞人に代わっている。作曲家は大てい、特有のメロディーラインやリズム感を持っていて、花岡の場合は、懐しいポップス系歌謡曲の匂いを感じていた。それが秋元の声味や語り口に似合って成功が続いていたろう。ところが杉本の曲は、もっと強めのスピード感やドライブ感を持ち、メロディーに彼独特の〝語り口〟がある。
 よくしたもので秋元の歌が、そんな杉本ものにすんなり乗って弾み、のびのびとしている。彼女の歌声のほどの良い温度と湿度、響き方と枯れた手ざわりが、そのまま変わらずに作品に生きているではないか! 矢野立美のアレンジも歯切れの良さなかなかで、こちらの作家の組み替えも上の吉と言っていいだろう。
 成世におけるもず、秋元における花岡は、いわば育ての親。それぞれに独自の歌世界を作って、それを歌い手の個性にまでふくらませて来た。親にとっては構築したヒット路線が、同時に彼らの権益に通じる側面もある。そんな手中の珠を同業の仲間に委ねるについては、内心、多少の抵抗はありそうにも思える。
 《ま、この2人の場合は、かわいい子には旅をさせろってところか...》
 作家も歌手もみんな親しい間柄だけに、成世、秋元の今作を、僕はそんなふうに受け止めたいと思っている。
週刊ミュージック・リポート