新歩道橋959回

2016年9月18日更新


 「同行二人」という言葉がある。「どうぎょうににん」と読み、巡礼者が「いつも弘法大師とともにある」という祈りを込めて、笠などに書きつける。作曲家船村徹の場合は、心友の作詞家高野公男が弘法大師に当たるように思える。船村が24才の時にブレークした「別れの一本杉」は昭和30年のヒットだが、コンビの高野は翌年の9月8日、26才で亡くなる。わずか7年の交友に過ぎないが、以後の船村は終生、高野と共に生きることを覚悟、今年9月3日には、水戸の茨城県民文化センターで「高野公男没後60年祭演奏会」を開く。タイトルが「高野公男・船村徹 友情無限」――。
 第一部は、高野と船村の映像にナレーションと歌。10代の音楽学校時代から病床の高野を見舞うショット、高野の没後毎年祥月命日に欠かさない墓参のスナップなどが大写しされ、船村の言葉がつないだ。
 「高野はずっと私の体の中に生きている」
 「毎年の墓参で僕は、移り行く日本の姿を彼に見せ、いろんな報告をしている」
 「人生とは思い出を作り、それを積み重ね、思い出の中に埋もれていくものなのか...」
 例の訥訥とした栃木なまりで、歌は「ご機嫌さんよ達者かね」「あの娘が泣いてる波止場」「男の友情」の3曲。1500の客席満員の善男善女は、粛然と耳を傾ける。しかし、船村の声はすれども姿は見えない。
 彼が拍手で迎えられたのは、第二部で弟子たちが高野・船村作品を歌い継ぐコーナー。緞帳が上がると船村と北島三郎が、テーブルを前に椅子に座って板付き。そこで船村の回想談が始まるのだが、意表を衡いた女遊びエピソードなどで、会場の爆笑を誘う。追悼イベントをあえて明るい〝60年祭〟とした意図からか。北島と鳥羽一郎を両脇に、ギターの弾き語りで「男の友情」を歌ったシーンでは、舞台そでで森サカエが泣き、静太郎、天草二郎、走裕介、村木弾の内弟子育ちが眼を赤くした。
 身内の人々はみなそれを、息をひそめて見守っていた。船村が心臓手術をしたのは5月6日、あわや心不全の危機を脱したのだが、心臓弁置き代えの手術は8時間を要した。84才の高齢で体力も落ちていたせいか、術後の回復も手間取る。退院が7月9日、以後辻堂の自宅で予後の闘病を続けた。例年6月に開く「歌供養」は中止、8月、言い出しっぺで制定された「山の日」の記者会見も前日に欠席を決め、高野のこの日の会だけは「這ってでも行く」一念で、船村は夏の酷暑と闘い、自分の心身を鞭打って来た。実は、今なお歩行困難で、会場入りも楽屋と舞台の往復も車椅子...。
 そんな気配を会場に洩らさぬまま、弟子たちは船村作品を歌いつのった。鳥羽が「別れの一本杉」や「兄弟船」森サカエが「北窓」松原のぶえが「おんなの出船」静太郎が「ごめんよ、おやじ」天草二郎が「一徹」走裕介が山の日記念曲の一つ「山が、笑ってら」村木弾が「ござる~GOZARU~」念願の船村作品を初めて得て「肱川あらし」を来年1月に世に出す伍代夏子は「花つむぎ」で、演奏は船村コンサート常連の仲間たちバンド。会の趣旨が趣旨のうえ、師匠の御前歌唱だから、歌手たちは皆めいっぱいの歌唱で観客を喜ばせた。
 前夜夕、宿舎のホテルで開かれた食事会で、僕は手術の日以来、久々に船村に会った。やせてはいたが血色は良く、驚いたことに髪が黒々としていて、日本酒をグイグイやる。患ったのが心臓だからさすがに煙草はやめ、母親の「毒消し効果があるから吸え」との遺言は破っていた。
 手術の最中、船村は三途の川らしきものを渡ったと言う。それは子供のころ遊んだ鬼怒川に似ていて、河原には一面にかわらなでしこが紅く咲き誇っていた。川向うには少年時代の友人の顔が揃い、その中から一人、
 「帰れ!戻れ!」
 と叫んだのは戦死した実兄健一氏。船村はズボンの裾をまくり上げながら、また彼岸を後にして戻ったそうだ。
 60年前に高野を見送った水戸で、船村はそう笑いながら取り戻した元気を示した。完全復活にはまだ少々時間を必要としそうだが、全快したらきっと彼は、高野と「同行二人」の演歌巡礼を続けることになるのだろう。
週刊ミュージック・リポート