新歩道橋962回

2016年10月15日更新


 「おい、どうなってるのよ、これは...」
 友人の花屋マル源の鈴木照義社長に説明を求めた。10月5日夜、東京のグランドプリンスホテル新高輪・飛天でのこと。北島三郎の芸道55周年感謝の宴が開かれたのだが、その会場づくりが凄まじかった。
 いつもなら入り口から会場の地下1階へ続くだらだら坂と、その先のロビーが殺風景なのだが、この夜は飾りものがびっしり。北島の大きな写真にはさまれて坂を降りる。巨大な金色の人形や、空間を圧する竜のつくりものは、彼が大劇場公演で使ったもの。ロビー正面には祝い花を贈った人名がボードに並び、生の松や花が額縁みたい。着席700人余のテーブルへ辿る道もあれこれ隙き間なく飾られ、会場ステージは大広間を見回す趣向で背景に富士山。
 「城ですよ。北島さんの故郷、北海道知内町にあるお城をイメージしてるの」
 僕が「スーさん」と呼ぶ鈴木社長が、嬉しそうに解説する。ゴルフと酒の遊びグループ小西会のメンバーだが、彼はもともと北島と同じ新栄プロの育ち。僕も亡くなった西川幸男会長の薫陶よろしきを得たから、はばかりながら二人とは同志のつもりでいる。
 《城か、その内部なあ...》
 前日から夜を徹した構築作業は、当日昼にまでまたがったそうな。花屋はその一部で、一体どのくらいの数のスタッフが動員されたことだろう。
 主人公北島については、気がかりが一つあった。9月3日、作曲家船村徹が茨城の水戸で開いた「高野公男没後60年祭演奏会」の出来事。心臓手術の予後で船村はまだ車椅子。その会のメインゲストの北島もまた車椅子で、催しの第二部、緞帳が降りた内側では、下手から船村、上手から北島と、二台の車椅子がステージに出て二人が着席、一見何事もない顔で幕を上げたのを目撃している。
 北島はその後9月12日に「頸椎症性脊髄症」の手術をし、目下リハビリ中という。水戸のあの日から約一カ月、見てはならぬものを見てしまった心地の僕は、この日、元気に振る舞う北島の姿に、やれやれと胸をなでおろした。ひと月前、夭折した相棒高野の霊を慰めるために、船村は「這ってでもいく」と踏ん張った。下肢が不自由で、前日まで欠席予定の北島は「来るな!」とさえぎる船村を「お師匠さんのためなら」と押し切って前日深夜に水戸に入っていた。
 飛天のステージ。やはり来られなかった船村はビデオメッセージで、
 「君の魂は決して老いることはないと信じている。我々が命をかけて紡いだ歌を枯らさないことを、君に託す」
 と祝し、北島はそれを孫の青年に手を添えられながら、直立、こうべを垂れて聞いた。
 昭和37年の出世作「なみだ船」をはじめ、古賀政男音楽大賞受賞の「風雪ながれ旅」レコード大賞受賞の「北の大地」などを中心に、数多くの船村作品を歌い、彼を生涯の師とする北島の歌手生活55年。アメリカ、中国、ロシア、ブラジルなどでも歌い、その都度、国の要人たちと会うなど、国際交流にも尽力、今年春には旭日小綬章を受章するなど、業績は諤諤たるもの。あいさつには安倍晋三首相まで駆けつける賑いになった。舞台に呼び上げられた仲間の歌手たちは、同い年の里見浩太朗や小林旭、橋幸夫をはじめ歌手名鑑が出来そうな顔ぶれがステージの端から端まで。
 「どうですかねえ、こんな感じになりましたが...」
 と、北島の息子で音楽事務所を仕切る大野竜社長が胸を張った。
 「うん、史上最高、最初にして最後だなこれは...」
 料理も酒もなかなかの美味。閉口したのは与えられたのが中央二番目のテーブルで、舞台を背にした席。どちらを向いても眼をあげれば知り合いの視線にぶつかって、まるで歌謡界総出だ。作詞家の池田充男など、眼が合った途端に両手をかかげて振ってみせたりする。
 《やると決めたら、ここまでやるか!》
 晴れがましさはおそらく「これが最後!」と思い定めたろう北島の胸中を思うと、僕は粛然とした気分になった。
週刊ミュージック・リポート