新歩道橋969回

2016年12月18日更新


 テレビを見終わって、一人で乾杯をした。人が来なければ自宅で飲むことのない僕に不審顔の愛猫が2匹。12月1日、堀内孝雄の「空蝉の家」が日本作詩大賞の大賞を受賞した夜だ。わがことみたいに喜んで、作詞した田久保真見に電話をする。内輪の祝勝会ふうにぎわいの中から、
 「おかげさまで...。はい。どうも...」
 とケイタイの彼女の声は、例のアニメ・トーンで途切れ途切れだった。
 4月にこの歌が出て以来、僕は勝手にヨイショを続けた。はやり歌評判屋の悪ノリ癖丸出しで、「これぞ時代の歌!」「社会派歌謡曲の傑作!」「田久保が凄い!」...。理屈っぽさが逆効果を生む心配などタナに上げた。実家を空き家のまま放置していた男が、処分するために故郷へ帰る。無人の家で思い返すあれこれ。一生懸命に昭和を生きた父母は、すでに亡い。その庭先に男は、蝉のぬけがらを見つける。そうか、この家は昭和のぬけがらなのか! と合点がいく。
 地方に放置された家屋は、今や社会問題である。それに歌謡曲的なアプローチをしたことに、この作品の意義があった。小道具に蝉のぬけがらを使ったアイディアが沁みる。遠くなった昭和を回想する奥行きもある。不倫ごっこに明け暮れる近ごろの歌謡界では、着想と筆致が際立ってシャープだと思った。しかし、僕は今、そんなヨイショの手柄話をしたい訳ではない。おそらくは、似たような評価をしたろう作詩大賞の審査員諸氏に、敬意を表したいのだ。作詩大賞も捨てたもんじゃないではないか!
 田久保には少し前に「菜の花」といういい作品があった。世俗のことなどみんな忘れた母と、ドライブする息子の話。その母が菜の花畑に反応するさまが、息子の優しい眼差しで描かれる。実はこの花が、父親の愛したものというダメ押しも利いていた。これも、昨今社会問題になっている痴呆がテーマ。僕はめいっぱいヨイショしたが、歌った湯原昌幸は、間もなく次の作品に移行、この歌は残念だが埋もれかけている。
 《昔はこんなじゃなかったのにな...》
 ひとりで酔った僕は、はやり歌評判屋の世迷い言を呟く。「いいものは、いい!」と口火を切りさえすれば、それに呼応してフォローした仲間がいた。菅原洋一の「知りたくないの」の小澤音楽事務所社長・小澤惇。彼とは北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」でも意気投合した。水原弘の「君こそわが命」は、東芝音工の宣伝マン田村広治が躍起になり、佐川満男の「今は幸せかい」はアルト企画社長の高見和成、藤圭子の「新宿の女」は作詞家石坂まさとが大騒ぎで話題をふくらませた。しかし、それもこれもはるか昔の話。高見以外はもうみんな故人になっている。
 結果として昨今、評判屋の僕の打率はひどく低迷したままだ。プロモーション勢のフォローなしでは、悪ノリ騒ぎも孤立して三振止まり。歌も玉石混こう石沢山の品ぞろえで、悪ノリする球が少ないのが現状。「もっといい歌を!」「もっと刺激的な歌を!」の歯ぎしりで、今春、「昭和の歌100・君たちが居て僕が居た」を幻戯書房から出版。評判屋の物狂いに一応のケリをつけた。舞台役者の方はもう10年めになる。何故? と聞かれれば「興奮する歌が出て来ねえからだよ」と、悪態をつくこともある。
 そんな80才の鬱屈を、「お待ちよ!」と肩叩いてくれたのが、「空蝉の家」の作詩大賞である。歌社会に出入りを許されて53年、天才奇才から腕利きの仕事師まで、多勢の歌づくり名人に会い、知遇を得て来た。雑文書きの性根は、とことん歌好き、歌びと好き。もうしばらくはいい歌のお先棒かつぎを続けなきゃ申し訳ないか! と思い返した。それじゃ今年最後のこの欄で、止めの一発! と思い定めたのが長保有紀の「人生(ブルース)」である。父とも呼べない男を追って、出奔した母親を語る娘のお話。思い出は母娘で走ってビリだった運動会と、ヘンな文句の子守唄。今ごろどこかの酒場で、あれを歌っているだろう...と、母をしのぶ娘もどうやら不幸せだ。もず唱平が書いた社会の底辺ストーリー、曲をつけた弦哲也が、
 「刺激を受けた詞です」
 と吐露したが、長保の声味にもぴったりの作品になっている。
週刊ミュージック・リポート